2022年11月30日 (水)

聖書の言葉414

わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。(ルカ1・47-48)

 待降節第二主日の今日はイエス様のお母さん、マリアのお話をします。
 マリアは小さなナザレの村で暮らす普通の女性でした。勉強が得意だとか、歌や踊りが得意だとか、不思議な力があるわけでもなく、ただ、神様を信じて生活していました。大工のヨセフと結婚することになっていたマリアの前に、突然天使ガブリエルが現れて「あなたは神の御子である男の子を産みます。イエスと名付けなさい」と言いました。結婚もしていないのに子供を産むなんて、しかも神の御子だなんてとマリアは驚きましたが、天使に「神様があなたの側にいて助けてあげますよ」と励まされ、マリアはほっとして神さまのおっしゃる通りにしようと思いました。
 でも、マリアは天使が去るとだんだん不安になり「この後どうなるのだろう」と考えたかもしれません。マリアは、親戚のエリサベトが年を取っているのに神様の不思議な力で赤ちゃんを与えられたと聞き、急いでエリサベトに会いに行きました。マリアがエリザベトに挨拶すると、エリサベトのお腹にいる赤ちゃんが喜んでおどり、マリアはエリサべトと話しているうちに喜びと勇気があふれてきました。そして「こんな小さな誰も目にとめないような私に神様は目を留めてくださった!」という神様をほめたたえる喜びの歌を歌いました。
 神様は、マリアさんだけでなくここに集う私達にも目を留めてくださっています。これからの皆さんの人生も神様が側にいてくださいます。私は大学生になるまで教会に行ったことはなく、礼拝は退屈に思っていました。そんな私が教会学校の先生になり、今は教会の色々な仕事をしています。神様のご計画は不思議す。神様が与えてくださる恵みに感謝します。(酒井由紀子)

2022年11月26日 (土)

聖書の言葉413

わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。(ルカ1・38)

 いよいよイエス様がお生まれになるクリスマスを待ち望む、アドベントになりました。街はきれいなクリスマスツリーやイルミネーションで飾られ、皆さんも心が躍るような嬉しい気持ちになっていることでしょう。
 今から約2000年前、マリアは自分のお腹の中にイエス様がいると知り、心躍ったかというと違ったでしょう。まず天使が現れたことに驚き、さらにおめでとうと言われて戸惑いました。この時代、結婚前に夫となるヨセフ以外の子どもができると、マリアは罪を犯したことになり、石打の刑で殺されるかもしれないのです。喜ばしいはずもなく、自分の運命を嘆き、神様を恨むこともできたでしょう。しかし、マリアは冒頭の言葉のように自分の信仰を告白し、神様のご計画を受け入れたのです。このときマリアは15歳くらいでしたが、幸せな結婚生活を送れず、殺されるかもしれないという困難を理解し、なお神様に従ったのです。神様が自分と共にいてくださることへの信頼があったからでしょう。幸いヨセフにも天使が現れて事の次第を語り、彼も信仰がある人だったので、マリアは夫婦でイエス様を育てることができ、石打の刑になることはありませんでした。
 私たちはマリアのように素直に神様のご計画を受け入れられるでしょうか。私たちが願う幸せな道ではなく、困難な道であっても神様を信じて従えるでしょうか。コロナや戦争、あるいは普段の生活でも、傷つき苦しむことがあります。ただ、イエス様もこの世に来て、私たちの苦しみを背負い、人々の手により十字架で亡くなりました。神様は私たちを見捨てず、独り子を世に送り、共に苦しみ戦ってくださいました。共にいてくださるからこそ、私たちは神様を信頼して信仰の道を歩めるのです。(原 良介)

2022年11月17日 (木)

聖書の言葉412

「隣人を自分のように愛しなさい」。(ローマ13・9)

「隣人の家を欲してはならない」という十戒の最後の掟は、人のものを欲しがってはいけないという私たちの心に対する戒めです。今はテレビやネットで人が楽しんでいる様子を簡単に知ることができ、私たちの周りには常に羨ましいもの、欲しいものが溢れています。私たちには周りと自分を比べる性質も持っています。したがって、禁欲的に生きるのはとても難しいことです。
欲しがっていけない理由は、欲しいと思う気持ちが、盗み、姦淫、うそ、などの罪につながるからです。殺人や横領などの問題が起こるのも、国と国が島や国境、資源をめぐり戦争を起こすのも、人の欲深さが要因と言えるでしょう。神様は人間の欲深さを知った上で、十戒の最後にこの戒めを置いています。私たちは何かが欲しくてたまらない時、与えられているものについて忘れます。人と比べて卑屈になる時、神様がどれだけ自分のことを愛しているか忘れます。神様はそのような私たちに、人のものを欲する必要はない、十分な愛と必要な賜物とを与えているのだから、とおっしゃっているのです。そして、そのように素敵に造られたのだから、互いに愛しあえるでしょうと。「隣人を自分のように愛しなさい」という聖書の言葉は、十戒の後半、人と人との関係に関する掟が、詰まるところ意味していることです。自分が神様から愛された大切な存在であることに気づき、与えられている恵みに気づくことが出来たら、他の人のものを欲しいと思わないし、周りの人もまた神様に愛された大切な存在だと知ることが出来たら、その人を傷つけるようなことはしないでしょう。そして、自分が満ち足りていれば、相手に分け与えることも、簡単になるのです。一見すると厳しい掟に見える十戒には、神様の大きな愛と、それ故に自分と他者、隣人を大切にできる、愛があります。
今日は収穫感謝のお祝いもします。神様から与えられた恵みに改めて目を向け、自分がどれほど愛されている存在か、自分の隣にいる人も
どれだけ愛されているのかを知りたいと思います。(原真友子)

 

2022年11月 1日 (火)

聖書の言葉411

金銭の欲は、すべての悪の根です。(1テモテ6・10)

 今日の十戒は「盗んではならない」です。
 みなさんは盗むと聞くと何を思い浮かべるでしょうか。
 私は泥棒です。泥棒にも私たちと同じように欲しいものがあって、その気持ちがどうしても大きくなってしまった時人のものを奪ってしまうのです。
 この十戒「盗んではならない」とはただ人のものを泥棒してはダメという意味だけではありません。人の尊厳や自由も奪ってはいけないと言っています。イスラエルの民がエジプトでされたようなことを繰り返してはならない。と、この「盗んではならない」も十戒として私たちに与えられました。
 また、誰かが困っている様子を見て見ぬふりをすることもその人の気持ちを蔑ろにしている行為です。
 神様やイエス様が私たちにしてくださっているように私たちも誰かに手を差し伸べて愛と恵みを分け与えていかねばなりません。(牧内 歩)

2022年10月25日 (火)

聖書の言葉410

結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。(ヘブライ13・4)

 みなさんは好きな人はいますか。好きなお友達はいますか。好きな先生はいますか。それはどんな人ですか。好きな人、大切にしたい人がいるのはとても良いことです。色々な人と関わって、私たちは成長していくからです。その中で、とっても好きで、これからもずっと一緒に過ごしていきたい、成長していきたい、相手にとっても私にとっても大切で代え難い人なんだ、と言う人を見つけたとき、そういう人を神様が与えてくださったとき、結婚するのだと思います。結婚式では、どんな時も2人が助け合い愛し合って生きていくことを神様に約束するものです。
 でも、その生活を壊してしまったり壊されてしまったりする人もいます。最近あの人のあそこが困る、目につく、だからあんまり話したくない、関わりたくない。あるいは、他にいいなと思う人ができた。他にすごくかっこいい人が現れた。神様が2人で一つにしてくださった自分の、あるいはその人の結婚生活を、自分の欲望のままに、淫らに壊してしまってはいけないのです。壊した人は神様から裁かれると今日の聖書箇所には書いてあります。壊してしまった人はどうなるのでしょうか。
 そんな出来ないみじめな罪人である私たちのために、私たちを愛している神様はイエス様をこの世に送ってくださり私たちのために十字架にかかってくださいました。私たちはその神様からの大きな愛の故に、また歩みを進めることができます。神様に喜ばれる生活を、また始めることできます。大切な人を愛し、大事にする、愛を尊ぶ生き方がどうかできますように。(原 知子)

2022年10月21日 (金)

聖書の言葉409

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。(1ヨハネ3・16)

 第6戒は「殺してはならない」です。とてもシンプルな決まり事ですね。でも皆さんは、そんなことはしない、あたりまえじゃないかと思っているはずです。しかし、聖書にはこう書かれています。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」。実際には殺していなくても、お友達のことを憎み、悪口を言い、時に「死ねばいいのに」と心の中で思ってしまう。そのことがすでに人殺しにあたるというのです。
 ですから、イエス様は私たちに最も大切な掟を与えてくださいました。「隣人を自分のように愛しなさい」です。イエス様が私たちのために十字架にかかってくださったことで、私たちは愛を知ったわけですから。(諸橋鷹広)

2022年10月13日 (木)

聖書の言葉408

父と母を敬いなさい。(エフェソ6・2)


 さて今回は、十戒の後半、人間同士の関係に関することとして最初に述べられている「父母を敬え」という言葉について、知りたいと思います。
 私たちの中で「はい、親の言うことは全て聞きます。いつも感謝して、反抗なんて一切しません」などと言える人はいるのでしょうか。私ははっきり言って、出来ません。家族だからこそ、近しい人だからこそ、その弱さや脆さに気づいてしまうし、親だからといって完璧な人間ではないことを知っているからです。
 ただ、神様は「父母を敬え」と言うのです。どうしてでしょうか。注目したいことは、神様は「主に結ばれているものとして」両親に従いなさいといっている点です。更にエフェソ6章4節では、「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」といっています。つまり、神様は、親を敬う理由は、彼らが立派であるからとか、お世話してくれるからとか、そういうことではなくて、神様によって父母を通して自分に命が与えられたこと、神様の愛を親の存在を通して知ることができることが前提となっていて、その上で親を大切にせよといっているのです。
 世の中には親としての歩みを上手く進められない人たちだって少なからずいますし、親とずっと上手くいかない人たちだっています。私たちは完全な存在ではありません。そのような私たちに、自分の親、身近な人を大切にすることができるのでしょうか。家族だからこそ、ゆるせなかったり、向き合えなかったりしないでしょうか。ただ、神様が両親という存在を通しても私たちに神様の愛を伝えてくださっているという事実を知る。そして、父と母を敬う。例えば、感謝を伝える。距離がある関係であれば、彼らのために祈る。もし私たちが、このようにして、自分の命が与えられた時に最も近くにいた隣人を大切にすることができたら、神様の喜ばれる平和が少し近づくような気がしませんか。(原真友子)

2022年10月 6日 (木)

聖書の言葉407

皆一つの体となるために(1コリント12・13)

 みんなの体には、手や足、目や耳や鼻や口などいろんな部分がありますね。手は物をつかんだり、ごはんを食べるのにおはしやスプーンをもったり、あくしゅしたりするときに必要です。足は立ったり、歩いたり、走ったり、かいだんを上ったりするときに無くてはなりませんね。目はけしきを見たり人の顔を見分けたり、耳では音や声を聞いて、鼻で息をすっておいしいご飯のにおいをかいで、口ではご飯をたべたり飲んだり、声を出してお話したり。体のそれぞれの部分がみんなちがうはたらきをしながら、あわさって一つの体として動いているので、わたしたちは生活ができています。もし、それがバラバラに勝手に動いたり、けんかして言うことをきかなくなったらどうなるでしょう?
 教会は一つの体のようだと聖書は書いています。神さまがくださったそれぞれのいいところや、上手なことや、やくわりがあって、ひとりの神さま、イエスさまにつながっています。みんなちがっても、みんな神さまのこどもとしてひとりひとり大切で、だれが一番えらいとか、だれがいらないということはありません。そして弱いことろがあれば、ほかが助けます。
 神さまは、この教会だけでなく、世界中の人が、いろんな人がいてちがっていても、みんな神さまの子どもとして愛してくださっているし、弱いところを助けあって生きてほしいと思っています。勉強ができる子も、できない子も。運動が得意な子も、そうでない子も、音楽や絵が上手な子もそうでない子も。元気な子も、病気の子も。みんながおたがいを大切にして「ともに生きる」世界になると、みんなもうれしいし、神さまも喜んでくださいます。そうなれるように、イエスさまにお祈りしましょう。(小田哲郎)

2022年9月30日 (金)

聖書の言葉406

しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。(マタイ5・34) 

 旧約聖書の中に出てくる、神さまが直接モーセに教えた十個の戒め、やってはいけないことの3番目に「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」があります。今日の新約聖書の箇所は十戒の3番目の戒めにとても深く関係しています。
 私たちは時として、自分の言ったことを信じてもらえなさそうな時、神に誓って何々してない!と言ってしまうことがあります。例えば学校の教室で友達の鉛筆が1本なくなったとしましょう。隣に座っていた自分に向かってその友達は、君が取っただろう?と言ってくるかもしれません。本当に取ってないならば、取ってないよ!と言いますよね? でもさらにその友達が本当に?本当に取ってない?とさらに言ってきたら、神に誓って取ってません!とついつい言ってしまうかもしれません。
 このつい口にしてしまう「神さまに誓う」という使い方は正しいのでしょうか。嘘をつくことはいけませんが、嘘じゃなかったとしても、何でもかんでも「神に誓う」と言って良いのでしょうか。
 聖書は「一切誓ってはならない」と教えています。十戒でも「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と教えています。
 私たちは神さまのお名前を嘘のために使ったり、虚しい誓いのために使ったりしてはいけません。また、神さまのお名前を自分の思うままに、好き勝手に使うこともいけません。
 私たちにとって大切なことは、神さまの名前を使うことではなく、神さまの名前を教えていただいたことに感謝することにあります。みだりに神さまの名前を普段の会話の中で使うのではなく、神さまに話しかけるお祈りの中で神さまと話しかけましょう。そのお祈りに神さまは応えてくださいます。(大西 順)

2022年9月22日 (木)

聖書の言葉405

あなたはいかなる像も造ってはならない。(出エジプト20・4)

 神様がイスラエルの人々のために、また私たちのために10の約束を与えてくださいました。十戒です。今日は十戒の第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない」です。
 世の中には、たくさん神様として祀られているものがあります。樹齢何千年の大樹、標高8000メートルを超える大きな山。奈良や鎌倉の地には大きな大仏があります。実に多くの神様として祀られている自然や人工物があります。しかし、神さまは実際には目に見えるお方ではありません。でも、時に人間は自分のために「目に見える神様」を造ってしまうのです。不安だからです。「本当に神様はいつも一緒にいてくれているのかなぁ。」と心配になるからです。だから、自分のために目に見えるものを造っては、それを拝んでしまうのです。
 神様は私たちの目に見えないお方です。見えないけれど、確かに私たちといつも一緒にいてくださって、愛し守ってくださるお方です。コリントという町にも人間の手で作られた偶像がたくさんありました。町の人々も、この人の手によって造られた神々を一生懸命礼拝していました。私たちは、目に見えない神様により頼み、目に見えない神様を信じ、目に見えない神様の声に耳を傾けて、共に歩んでいきましょう。(諸橋鷹広)

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