2019年4月19日 (金)

聖書の言葉254

婦人たちはイエスの言葉を思い出した。(ルカ24・7)
 
 今日はイースターです。イースターは私たちの主であるイエス様が復活したことを思い出す日です。死んでいたはずの人が復活するなんて私たちには信じられないようなことです。今日聖書に出てきた人たちも、すぐには信じることができませんでした。イエス様は繰り返し自分は死んで、三日後に復活するとおっしゃっていました。けれどもそんなこと本当に起こるなんて思ってもみなかったのです。そんなこと言わないでくれ、聞きたくない、とイエス様に言っていました。
 イエス様を墓に入れて、それでも思い出すことができませんでした。イエス様を失った自分の悲しみでいっぱいいっぱいだったのです。だから、イエス様のお墓に入って、そこに何もなくなっているのを見て、ただただ途方に暮れるしかありませんでした。けれども、天使に言われて、それまで聞くことのできなかった、聞きたくなかった言葉を思い出します。このとき思い出してはじめてその意味がわかります。そうすると、あの悲しみでいっぱいだった女の人たちはもう立ち尽くしている人たちではなくなりました。本当にイエス様は復活したんだ、と伝えずには居られない人になります。
 この話を聞いた弟子たちもすぐには信じられませんでした。そうすると、今度はイエス様ご自身がやってきて、思い出すことができるようにしてくださいます。一緒に居た頃に言われたことを弟子たちは思い出します。それが本当だったことに気がつきます。思い出したことをつなぎ合わせて、今、聖書という形で、私たちの手元にその言葉が届いています。すぐに信じられない私たちに、聖書を通して、神様は私たちに信じることができるようにしてくださいます。私を思い出してみなさい、それが本当だったことがわかるよ、と私たちに語ってくださいます。(狩野進之佑)

2019年4月12日 (金)

聖書の言葉253

わたしはあなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。(創世記12章2節)

  神様によって『祝福の源』とされたアブラハムについて学びましょう。イエス様が生まれる2000年くらい前の、旧約聖書に登場する人です。神様は祝福の源としてアブラハムを選ばれました。祝福とは、神様が愛してくださるということ、守ってくださるということ、生きるためのすべてを与えてくださるということです。アブラハムの子孫であるイスラエルの民からイエス様はお生まれになります。イエス様は私たちへの神様の祝福そのもの。なるほど、アブラハムは祝福の源なのだ、と納得します。
 さて、なぜ神様はアブラハムを選ばれたのでしょう。それは誰にもわかりません。人間にはわからないことが沢山あるのです。アブラハムが素晴らしくよい人だったからでしょうか? アブラハムがリーダーとして、とてもしっかりした強い人だったからでしょうか? どうやらそうでもないということが聖書を読んでいるとわかってきます。アブラハムには欠点もあれば弱いところもあります。しかしアブラハムにあるのは神様を信じる心です。神様のみ言葉に飛び込んでいける心です。そんなアブラハムですが、神様を信じて進む中でも何度も失敗をします。そしてその度に心から悔い改め祈ることができる人なのです。
 さあ、アブラハムは75歳にもなって、神様が示された通りに、住み慣れたふるさとを捨てて旅に出ます! その先に何があるかなんてわからない旅です。もう安心して残りの人生を楽しみたい年齢なのに。心配せずに神様のご計画に飛び込む。間違えたら悔い改めてお祈りする。そうすれば私たちは祝福を与えられるのです。(石室優子)

2019年4月 6日 (土)

聖書の言葉252

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。     (創世記2・7)
 
 聖書の一番最初の物語は創世記です。この世界と私たちを神様が造ってくださったことを教えてくれます。
 私たちはお父さんとお母さんから生まれました。お父さんとお母さんはお爺さんとお婆さんから生まれました。みんなそっくりです。親子だからです。家族だからです。実は私たち皆は神様にそっくりなのです。それは私たち皆を作ってくださった神様と私たちは親子だからです。
 不思議なことに、神様がご自分に似せて私たちをどうやって造ってくださったかというと、土の塵から造ってくださったと聖書は教えてくれます。そして神様の命の息を吹き込んでいただいたおかげで、私たちは息を吸い込んで、そしてはいて生きることができます。私たちは神さまに命を与えていただきました。
 土の塵から造られた私たちは、こわれやすいのです。弱いのです。どうしたら生きることができるのでしょう。食べ物や飲み物や着る物や住むところが必要でしょう。助けてくれる人がいないと生きていけないでしょう。
 一番大事なことは神様の息を呼吸しないと生きていけないのです。そのためには、「神様……主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメンと」と祈ることです。祈ることが神様が与えてくださった命の息を呼吸することになります。
 神様の息は、お互いのために祈ったり、苦しんでいる人のために祈ったりすると、生き生きとします。いっしょに神様の息を吸ったりはいたりして分かちあうことができます。祈って神様の息を呼吸すると、神様の言葉を食べたくなります。神様の言葉は最高の食べ物です。(岸 俊彦)

2019年3月15日 (金)

聖書の言葉251

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ27・46)
 
 皆さんは人生の最期をどのように迎えたいか考えたことはありますか。自分の子どもや孫に囲まれ、眠ったように静かに息を引き取りたいと願うでしょうか。ただ、世の中には誰にも気づかれずにひっそりと亡くなる人もいます。そのような人生の最期、あなたなら何を思いますか。
 神様の独り子であるイエス様の最期は非常に辛いものでした。謂れのない罪で十字架にかけられ、苦しみの内に亡くなりました。それもイエス様が味わった苦しみは本来私たちが神様から受けるべきものでした。私たちは神様の愛を受けておきながら神様の期待を裏切り、神様の望まぬ道を進んでしまいます。周りの人を自分のように愛せず、自分の非を素直に認めることができず、何より神様を忘れて好き勝手に振る舞うものです。イエス様はそのような罪深い私たちの代わりに全ての罪を背負って、堪え難い苦しみの果てに亡くなりました。これはイエス様が生まれる前から神様の決められたご計画で、イエス様もそのことを理解していましたが、いざ息を引き取る際には「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。愛するものから見放される悲しみはどれ程でしょうか。だからこそ私たちは神様を見捨てるような真似をしてはなりません。
 私たちもいずれ亡くなります。しかし、神様を信じて歩めば、この地上の人生が終わっても、天国で神様とイエス様、その他大勢の愛するものとまた一緒に過ごすことができます。イエス様が神様と私たちを繋いでくださったことで、私たちがどんなに苦しいときでも、神様に見捨てられることもイエス様以上の苦しみを受けることもありません。その救いを信じ、終わりの日に備えつつ、一緒に神様を見上げて歩みましょう。(原 良介)

2019年3月 7日 (木)

聖書の言葉250

御心のままに。(マタイ26・39)
 
 私たちは、なかなか神さまに聞き従おうとしません。神さまなんか知らないよと思っています。そこに私たちの罪があります。イエスさまはそんな私たちが神さまに聞き従って、神さまの子として生きることができるように十字架にご自分の命を注いでくださいました。私たちにかわって神さまに私たちの罪をゆるしていただくためです。イエスさまが命がけになるほど私たちの罪は大きく重いのです。
 十字架にかけられることは想像もできないほど苦しいことです。イエスさまでも逃れたいと思いました。そのためにゲッセマネで祈りました。「天のお父さま、助けてください」と。でも「御心のままになさってください」と祈りました。
 イエスさまがこんなに苦しみながら祈っている間に、ペトロとゼベダイの子たちは眠ってしまいました。「イエスさまのためなら死んでもかまいません」と言ったペトロです。「イエスさまと一緒にこの世を治められるなら、一緒に十字架にかかります」といったゼベダイの息子たちです。
 「心は燃えても肉体は弱いのだ」とイエスさまは3人に言われました。夜中から明け方まで、3度「御心のままに」と祈りました。一時は2時間ですから、6時間もイエスさまは祈ったのです。そして、ようやく決心がつきました。神さまがお望みなら、そして眠ってしまう弱い弟子たちや、弟子たちと同じような私たちのために、十字架の死を恐れることなく進もうと。それほどまでに弟子たちも私たちも愛されているのです。
 この神さまとイエスさまの愛に支えられて、誘惑に負けないように、自分に負けないように、祈り続けたいと思います。そして、心から神さまの御心に聞き従う者になりたいと思います。私たちも神さまとイエスさまを愛することができるからです。(岸 俊彦)

2019年3月 2日 (土)

聖書の言葉249

「いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。(マタイ20・27)
 
 私は中学生の時バスケットボール部に所属していました。バスケットボールは5人対5人で点を取り合うチームスポーツです。バスケ部全体で30人以上の部員がいましたから、私が試合に出るためには、なんとか練習して、試合で結果を出して、5人に選ばれなければなりませんでした。私は同級生の子が5人に選ばれて試合で活躍しているのを見て、自分だったらもっと上手にできるのにと悔しがっていました。
 イエス様とその弟子たちは、神様のことを人々に伝えるために伝道旅行をしていました。イエス様は旅の中で弟子達に、たびたび自分が十字架にかかり死ぬこと、そして3日目に復活することをお話ししていました。弟子達はイエス様が神様の一人子であることを知っていましたし、本当に信じていました。ですが、12人の弟子達の関心事はどうやればイエス様のお気に入りの弟子になるかということでした。なぜイエス様が十字架にかからなければならなかったのかにはあまり、関心がなかったのです。
 今日の聖書の箇所ではゼベダイの息子たちの母が登場します。このお母さんは12弟子のヤコブとヨハネのお母さんです。そしてイエス様の前に現れこのようにお願いをしました。「どうかイエス様が王座についた時、その右と左に私の息子たちを座らせてください」。
息子を愛するお母さんの姿ではありますが、弟子たちと同じように誰がイエス様の一番のお気に入りになるかという関心しかありませんでした。イエス様はヤコブとヨハネに質問します。「私がのもうとしている杯をのむか?」この質問は、イエス様ご自身が十字架にかかり、罪を背負って命を捧げるという苦しみを共にするか?という質問でした。このイエス様の質問にヤコブとヨハネは「のみます。」と答えます。イエス様は12弟子にこの純粋な答えだけを求めていました。そして弟子達に互いに仕えあう仲間になるように言いました。「いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」マタイ20:27(松浦子基)

2019年2月23日 (土)

聖書の言葉248

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。(マタイ17・5)

 イエスさまとペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちは、ある日、高い山に登っていきました。すると、弟子たちの前で「イエスさまのお姿が突然変わり、お顔は太陽のように輝き、服も光のように白くなりました。それだけでなく、どこからともなくモーセとエリヤが現れ、イエスさまはその二人とお話を始めたではありませんか。

 モーセもエリヤもイエスさまよりもっと昔の、神さまに仕える偉いひとたちです。もうとっくにお亡くなりになった、有名な人たちが、とてもまぶしい姿でイエスさまとお話をされている。ペトロは信じられないことが目の前で起こっていることに感動して、イエスさまに「わたしたちがここにいるのはすばらしいことです」と言い、いつまでもこの場所にいられるよう、小屋を3つ建てましょうか、と話しかけました。すると、さらに信じられないことが起こります。雲が光輝いて、ペトロたちをおおい、その中から神さまのお声が聞こえてくるではありませんか。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者。これに聞け」というお言葉です。神さまのお声を直接お聞きすることなどあるでしょうか。弟子たちは恐れて、ひれ伏してしまい、イエスさまが起きるように言われたので、顔を上げるともう他にはだれもいませんでした。イエスさまは弟子たちに、神さまのお言葉を聞かせてくださいました。

 私たちも、神さまの愛する主イエスのおっしゃることをよく聞いて、共に歩んでいきましょう。(門田浩一郎)

2019年2月16日 (土)

聖書の言葉247

あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に教会を建てる。(マタイ16・18)
 
 ある時、イエス様は弟子たちを連れて旅をしておられました。この旅は、これまでのように、沢山の人々に神様のことを伝えるための旅ではありません。人々の病を治すためでも、奇跡を示されるためでも、たとえ話をしてくださるためでもないのです。弟子たちに大切なことを確認するための旅でした。大切なこと、それは何でしょうか?
  イエス様が問われました。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。
 「あなたはメシア、生ける神の子です」とペトロは答えました。
 この大切なことを確認されたあとです。弟子のペトロにイエス様は言われました。
  「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に教会を建てる」。
 そして、「わたしはエルサレムで十字架にはりつけになり殺され、三日目に復活することになっている」とイエス様は続けて言われました。ペトロは「とんでもないことです」と言いました。するとイエス様が言われました。
 「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」。
  私は神様を信じています。それはわれながら素敵なことだと思っています。イエス様がいつもそばで喜んでくださっているのがわかります。
 そんな素敵なはずの私ですが、残念ながら、素敵ではない時もたくさんあります。イエス様が悲しんでおられるのがわかります。
 そんな時、私はどうすればよいのでしょうか? (石室優子)

2019年2月 8日 (金)

聖書の言葉246

イエスはこれらの人々をいやされた。(マタイ15・30)
 
 イエス様のもとには、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、そのほか多くの病人が連れてこられました。イエス様に治してもらうためです。イエス様のもとはまるで病院です。イエス様はお医者さんです。
 子どものころ、カゼで熱が出て学校を休みました。お医者さんに診てもらい、薬をもらいました。熱が下がるまで布団に入って休みます。病気はイヤなものです。でも一つだけ嬉しいことがありました。いつもよりお母さんが優しくしてくれることです。「食べたい物はなに?」と聞いてくれたりします。「ヨーグルト」と言うと、ビンに入ったヨーグルトを買ってきてくれます。熱があって苦しいのですが、ヨーグルトはとても美味しかったです。熱で汗をかくとお母さんは身体を拭いてくれて着替えさせてくれます。いつもだと「自分でちゃんと着替えなさい」と叱られるところなのに。
 病気はお医者さんが治してくれます。それだけでは私たちは元気になることができません。自分のことを覚えてもらったり、優しくしてもらったりして元気がでるのです。
 お医者さんでも治すことのできない病気があります。家族でも、どうやって慰めたり、励ましたりしたらよいか分かりません。神さまにおまかせするしかありません。その人のために祈るです。「イエス様が共にいてくださいますように」と。
 不思議なことに、目にはみえませんが、その人にもイエス様が共にいて、見守っていてくださることが感じられるのです。治らない病気でもイエスさまが共にいてくださるから、「死ぬのはこわくありません」という気持ちになるのです。イエス様を信じることは、病気の人にも看護する人にも本当の平安を与えてくれます。(岸 俊彦)

2019年1月30日 (水)

聖書の言葉245

「安心しなさい」(マタイ14・27)。
 
 イエス様は、5つのパンと2匹の魚で大勢の人々をお腹いっぱいにした後、お弟子さんたちを船に乗せて、ひとりだけになりお祈りをされました。どんなお祈りをしていたのでしょう。
 船はすっかり湖の真ん中まで来て、あたりは真っ暗です。強い風が吹き、お弟子さんたちは不安な気持ちでいっぱいです。夜明け前、ようやく辺りの様子が見えてくると、向こうの方から湖の上を歩いてこちらにやってくる人影が見えました。もしかしたら幽霊かもしれない、お弟子さんたちは恐怖のあまり、からだの震えが止まらなかったことでしょう。すると幽霊だと思っていたのは、実はイエス様だったのです。イエス様は「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と優しく語りかけてくださいました。
 ペテロは言いました。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。イエス様が、「来なさい」と言うと、なんとペテロは水の上を歩いてイエス様の方へ進んでいきました。その時、強い風が吹いたのでペテロは「沈んでしまう!」と怖くなって、「主よ、助けてください」とイエス様に叫びました。イエス様はそんなペテロの手をとって助け、続けてこう言いました。「信仰の薄い者よ、なぜうたがったのか」。
 私たちはある日突然、「周りが見えない」「怖い」「さみしい」といった辛い目にあうことがあります。そんな時にかぎって神様を信じる心が弱まってしまいます。しかし、イエス様はそんな私たちをいつも見てくださいます。そして、優しく近寄って「安心しなさい」と声をかけてくださいます。だから、辛い時にこそ、イエス様の元へ歩いてゆけば良いのです。(諸橋鷹広)

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