2025年3月14日 (金)

聖書の言葉515

「そんな人は知らない」(マルコ26・74)

 最後の晩餐の席で、イエスさまが弟子たちに言いました。「おまえたちは私を裏切る」。ペトロはびっくりして、「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、イエスさまのことを知らないなどとは決して申しません」。弟子たちも同じように言いました。しかし、裏切り者のユダに先導された大勢の人たちが、ゲッセマネでイエスさまを逮捕すると、弟子たちは逃げ出してしまいました。恐かったからです。
 夜中大祭司カイアファの屋敷で裁判が行われました。ペトロはイエスさまがどうなるか心配で、恐かったけれど大祭司の庭に潜り込みました。とても寒い夜のため、庭では火がたかれていました。そこで働いていた人たちは、裁判のことを気にしながら火にあたっていました。ペトロもこっそり火にあたりました。炎の明るさで皆の顔が分かりました。
 一人がペトロに向かって「ガリラヤのイエスの仲間だ」と言いました。ペトロは「何も分からない」と言って、門の方へ遠ざかりました。またもう一人が「この人はナザレのイエスと一緒にいた」と言いました。また「そんな人は知らない」とペトロは強く言いました。そこにいた人たちがペトロの周りに集まって来ました。「お前もあの連中の仲間だ。ガリラヤなまりがその証拠だ」。ペトロは追い詰められました。恐くて恐くて「そんな人は知らない」と神さまに誓って言ってしまいました。
 夜明けを知らせる鶏の鳴き声が響きわたりました。ペトロの姿がはっきりと照らしだされました。「鶏が鳴く前に、あなたは3度、私を知らないと言うだろう」と言ったイエスさまの言葉をペトロは思い出し、外に飛び出して、激しく泣きました。自分こそ本当の裏切り者、罪人だったからです。こんなに恐ろしいこと、悲しいことがあるでしょうか。(岸 俊彦)

2025年3月 8日 (土)

聖書の言葉514

「友よ、しようとしていることをするがよい」(マタイ26・50)


 ゲッセマネでの祈りの後、暗闇の谷に武器を持ち松明を掲げて大勢の人がイエス様を逮捕しにやってきました。弟子のユダはイエス様を裏切って祭司長たちに「自分が近づいて接吻する人がイエスだ」それが合図だと約束していました。「先生、こんばんわ」とユダが言うとイエス様はユダに「友よ、しようとすることをするがよい」とおっしゃいました。自分を裏切った者に「友よ」と呼び掛ける、驚きのお言葉です。イエス様はユダの愚かさ、イエス様を信じ切れない哀れさも受け入れていらっしゃったのです。イエス様を守ろうと大祭司の僕に切りつけた弟子にも「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と剣を納めさせました。神様を信じ、み心に委ねることが出来ない者へのお言葉です。イエス様が逮捕されると弟子たちはイエス様を見捨てて逃げてしまいました。私たち人間は恐れや不安の中にある時、自分の力に頼ってじたばたしてしまいます。これらはみんな自分のことばかり考えてしまう私たち心の弱い人間の姿です。
 イエス様は聖書の言葉が実現するために、私たち人間の罪を背負って十字架に付けられ、罰を受けることを強い気持ちで受け入れて下さいました。イエス様は十字架への道行がどんなに苦しく悲しいものなのかよくご存知でした。それでも神様のみ心、私たちへの愛をお示しになるために十字架の道に進まれました。心の弱いユダに、裏切った弟子たちに、そして私たちにイエス様は「友よ」と呼び掛けて下さいます。「どんなことがあろうとも私はあなたを見捨てないよ、あなた達のことを神様にとりなして祈っているよ」と…。
 愛をもって十字架に付けられ、ゆるぎない信仰で神様を信じ、復活されたイエス様。イエス様が私たちを神様につないで下さっているのです。(小嶋幸子)

2025年3月 1日 (土)

聖書の言葉513

「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし私の望むようにではなく、御心のままに」(マタイ26・39)


今日はレント(受難節)に入るのを目前に控え『ゲッセマネの祈り』とよばれる箇所を読みます。この祈りは壮絶な苦しみと嘆きの祈りです。
 イエス様はご自分がこれから十字架刑にあわれることを知っておられました。ですが「できることならば、この十字架の死を私から過ぎ去らせてください」と神様に祈りました。そして続けて祈られました。イエス様ご自身の思いではなく「神様の御心のままにしてください」と。イエス様は神の子ですが、人間の体で生まれてきたのです。手足を釘で十字架に打ちつけられ死んでいくことが、どのような苦痛であるか考えることすら恐ろしいです。しかしイエス様が悲しみもだえておられるのは、肉体的な痛みをはるかにこえる痛みゆえにです。
 神様に罰せられるべき、悪く弱い人間たちの罪を代わりに全て背負ってイエス様は神様に罰せられるのです。イエス様は何も悪いことをしていないのに人間の罪を背負われます。その覚悟があってなお、父なる神様からの罰を受ける悲しみは壮絶なものでした。
 イエス様はこの苦しみを少しでも一緒に分かち合うことを弟子たちに望まれました。「私が祈るあいだ、一緒に起きているように」と。イエス様が何かを弟子たちに対して望まれたことなどこれまでにあったのでしょうか。それなのに弟子たちは一時の間起きていることすらできず、嘆きもだえるイエス様をおいて眠ってしまいます。人間はとても弱く罪深いです。
 イエス様逮捕の瞬間が近づいていました。裏切り者のユダが、イエス様を恨む人々を連れて迫ってきました。
 イエス様の人間への愛の深さ、人間の罪の深さ。主の十字架の意味を一緒に考えましょう。(石室優子)

2025年2月21日 (金)

聖書の言葉512

この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。(マタイ26・13)

 今日のお話は、イエス様が亡くなられた最後の週に起こった出来事です。
 イエス様はベタニアに住む重い皮膚病を患っているシモンの家を訪ねていました。当時、重い皮膚病を患っている人は差別の対象でした。しかし、イエス様はその人と食事をしていました。その食事に、女の人がナルドの香油が入った壺を持ってやってきました。この香油は、1年間分の賃金、約300デナリオンが必要なほど高価なものでした。ですが、女の人は香油をイエス様の頭に注ぎかけたのです。女の人はイエス様による罪の赦しに感謝し、それに見合ったお返しをしようと家宝のように大切な香油を全て捧げようとしたのです。
 それを見ていた弟子たちは女の人に怒りました。「売れば貧しい人たちに施しを与えることができるのに無駄に使ってしまった」と思ったからです。女の人は良かれと思ってしたことが、裏目に出たと思い困ってしまいました。するとイエス様は、女の人の気持ちを理解してくれて、ご自身の最期を予感してお葬式の用意をしてくれたとさえ言いました。さらにこの出来事はこれからイエス様のことが語られるたびに記念として語り伝えられると言いました。
 とても高価なナルドの香油をイエス様に全て捧げることは、この女の人からすれば精一杯の感謝と献身のしるしでした。そこにはためらいの心は一切無かったことでしょう。
 彼女のように神様とイエス様を信じ、従うものは自分の大切なものを惜しみなく捧げることができるのです。私たちも彼女のように、イエス様の愛に応えた捧げ物ができると良いですね。(牧内 歩)

2025年2月14日 (金)

聖書の言葉511

持っている人は更に与えられて豊かになる。(マタイ25・29)


 イエス様は、十人のおとめのたとえに続いて、天の国について「タラントンのたとえ」でお話しされました。テレビ番組に出ている芸能人をタレントと呼びます。英語のタレントは、お金の単位であるタラントンが由来となっています。タレントという言葉の「才能」という意味から、テレビで脚光を浴びる人たちのことをタレントさんというようになったのです。
 ある主人が3人の僕に、5タラントン、2タラントン、1タラントンとそれぞれの能力に応じて財産を預けました。1タラントンというのはとてもたくさんのお金です。長い旅から帰った主人が僕たちにお金について聞くと、5タラントン預かった者と2タラントン預かった者は、商売をしてもうけを増やしました。しかし、1タラントン預かった者は、土の中に隠しておいただけで、他の2人と同じように増やすことをしませんでした。それで、主人に怒られてしまうのです。財産を増やさなかったことを責められたのでしょうか?
 預かった財産とは、「賜物」です。私たち一人一人が神様からいただいた「賜物」「能力」「才能」です。その神様からの恵みに応えようと働いた2人の僕は、主人に喜ばれました。しかし、いただいたタラントンをちっとも活用しなかった僕は、結果タラントンを取り上げられてしまいます。
 このたとえは神の国について説明しています。いつか来る終わりの日、その日に私たちは神様の前で決算をするのです。私たちの地上での歩みが神様に喜ばれるものであったかどうかを。だから私たちは、いつその日が来ても良いように備えておかなければなりません。神様から受けた賜物を活かして、豊かに生活することを神様は望んでおられます。神の国は、そういう者たちのために開かれるのです。土の中に埋めてはいけません。主から受けた賜物に感謝して、失敗を恐れず大胆にチャレンジして歩みましょう。(諸橋鷹広)

2025年2月 6日 (木)

聖書の言葉510

「目を覚ましていなさい」(マタイ25・13)


 物語は、十人のおとめが花婿を迎えるために出かけるところから始まります。彼女たちはそれぞれランプを持っていましたが、五人は賢く、五人は愚かでした。賢いおとめたちは油をたっぷりと持っていましたが、愚かな者たちは油を持たずに出かけてしまいました。この点が、私たちの信仰生活において非常に重要な教訓を与えてくれます。
 まず、油というのは私たちの信仰の象徴です。油を持っていることは、神さまとの関係を深め、日々の生活の中で神さまの導きを受けていることを意味します。私たちは日々の祈りや聖書の学びを通して、神さまと近い関係を築く必要があります。愚かな五人のおとめは、油を準備しなかったために、花婿が来たときにランプを灯すことができず、結局は門を閉ざされてしまいました。これは、私たちが信仰の備えを怠った場合に、神さまの国に入ることができなくなることを表しているのです。
 また、このたとえは、時間の重要性をも教えています。花婿の到着が遅れても、賢いおとめたちはしっかりと待つことができましたが、愚かな者たちはその間に眠ってしまいました。私たちの信仰生活も同様に、時には神の働きがすぐには見えないことがあります。しかし、私たちは忍耐強く待ち続けることが求められています。待つことは、私たちの信仰を試す機会であり、その中で成長することができます。
 さらに、このたとえは、自分たちのの責任についても教えています。賢いおとめたちは、自分たちのために必要な準備を怠らず、他の者の備えを頼ることはありませんでした。信仰は個々のものであり、他の人の信仰によって私たちが救われるわけではありません。ですから、私たち一人ひとりが自分自身の信仰を育て、神さまとの関係を深める努力をしなければなりません。
 最後に、このたとえの終わりには、イエスさまが「目を覚ましていなさい」と語っています。これは、私たちがいつでも神さまの働きに目を向け、準備を整えておくようにという警告です。私たちの信仰の備えは、日常生活の中での小さな選択や行動から始まります。神さまに従うこと、隣人を愛すること、そして日々の祈りを通して神との関係を深めることが、私たちの備えとなります。
 結論として、「十人のおとめのたとえ」は、私たちに信仰の備えの重要性を強調しています。賢いおとめのように、神さまとの関係を深め、忍耐強く待ち、個々の責任を果たしていきましょう。そして、いつでも神さまの国に迎え入れられるよう、共に心の準備を整えていきましょう。(文弘元)

2025年1月31日 (金)

聖書の言葉509

最後まで耐え忍ぶものは救われる。(マタイ24・13)

 今日の聖書には終末の徴について書かれています。戦争、飢饉や地震、産みの苦しみがあると。考えてみると今も戦争や飢饉など、世界中で起こっています。世界各地で人々が憎み合い、殺し合いまで行われているのです。絶望的になりますし、怒りがこみあげても来ます。そんな中、私たちは「人に惑わされないように気をつけ」なければなりません。敵味方を決めつけ「敵をやっつけよう」とか「殺せ」とか思ってはならないのです。イエスさまの「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」との言葉を思い出して下さい。この言葉こそ全世界に救いをもたらす御国の福音なのですから。
今日の聖書の箇所の最後の所で、イエスさまは言いました。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして御国の福音は全ての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る。」と。
つまり、どんなに悪いことや苦しいことがあっても私を信じていれば大丈夫。私はあなたのことを愛しているのだから心配はいらないということなのです。世の終わりというのはこの世界が滅んで終わってしまうということではなく、イエスさまが再び来て、私たちのこの世界の救いを完成してくださるときのことなのです。生きていく中で苦しみも悲しみもあるけれど、いつも神様が横にいてくださる。不安なことに出会ったとき「最後には救われるんだよ」という言葉を思い出してほしいとイエスさまは思っています。不安に心を振り回されないで、神様を信頼していろいろなことを乗り越え毎日を過ごしてください。人は必ず年を取り、この世を去ることになります。私たちは神様のそばに行くことができるのですから、良い時も悪い時も、イエスさまを信じて喜びの日に向かっていきましょう。(大友太郎)

2025年1月25日 (土)

聖書の言葉508

あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。(マタイ23・12)

   
 イエス様は、群衆と弟子たちに向けて話す中で、律法学者やファリサイ派の信仰の姿勢を痛烈に批判しますが、これは決して他人事ではなく私たちの信仰に当てはめて読まなくてはいけません。
 イエス様は、律法学者とファリサイ派のすべてがダメだとは言っておらず、彼らの律法に従う姿勢は認め、彼らの言葉に従い守るようにと語る一方で、彼らの次のような行いは見習ってはならないと批判します。
 1つ目に言行の不一致です。人々に対しては神様の名において、あれをしなさい、これをしなさいと命令する一方で、自らそのように行動しません。せっかく正しい教えを伝えても、人々を指導する律法学者たちがその教えを守れないようでは、神様が喜んでくれるはずがありません。私たちも、交通ルールを守らない警察官の言うことを聞きたくありませんよね。
 2つ目に見栄を張ることです。人より目立つものを身につけてみたり、上座を好んだり、先生と呼ばれたりすると、いい気分になるでしょう。律法学者たちは人からよく見られたい、尊敬されたいという、自分中心の思いが強く、そこには神様に従う信仰心はありません。
 私たちにとって、真の先生も父も教師も、神様でありイエス様だけです。律法学者であろうとなかろうと、私たちは神様の子どもとして、互いに平等なのです。そして、イエス様はこの世で最も低い者のもとに来てくださり、仕えてくださいました。私たちが背負いきれない重荷を抱えていたら、休ませてくださいます。その上、その重荷を一身に背負われ、十字架につかれました。そのようなイエス様だからこそ、「いちばん偉い人は、仕える者になりなさい」と身をもって語られるのです。(原 良介)

2025年1月16日 (木)

聖書の言葉507

心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。 隣人を自分のように愛しなさい。(マタイ22・37-39)

 イエス様がお生まれになる前、ユダヤの人々はずっと『律法』にしたがって生きてきました。律法とは神様から人々に与えられた掟です。人間の守るべきことを記したものです。
 皆さんに最も身近な律法は、モーセが神様より授かった『十戒』かと思います。旧約聖書にはこの十戒に始まり、約600もの律法があります。人々は沢山の決まりにしばられて、恐る恐る暮らしていました。
 イエス様は、ただやみくもに律法にしばられ、罰を恐れて生きることがよいと思われませんでした。イエス様は、神様の愛を信じること、イエス様を神様から遣わされた救い主と信じることが何よりも大切だと教えてくださいました。さらに、ひとりひとりが神様に愛されている大切な存在なので、互いに愛し合うようにと言われました。
 律法を何より重んじる学者や聖職者たちは、イエス様の律法から外れた行動を恐れ、イエス様を憎みました。自分たちを尊敬していた民衆が、自分たちから離れてイエス様を信じてしまうことを恐れました。
 イエス様をおとしいれたい律法の専門家がイエス様に問いかけました。 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」
 ここでイエス様は、「神様を愛すること、人を愛すること」の二つをあげられました。膨大な数の律法の中から、イエス様はこの二つのことをあげられたのです。(石室裕一)

2025年1月 7日 (火)

聖書の言葉506

主がお入り用なのです。(マタイ21・3)

 イエス様がエルサレムに入城しました。神さまに聞き従わない私たちを、新たに神さまと結びつけるためです。私たちは神さまと繋がって、神さまを信じてこそ、どんなことにも耐え、立ち上がって、生きることができます。すべての人を愛する神さまの愛を実現するために、イエス様が用いられました。私たちも用いてくださいます。
 まず2人の弟子が用いられました。用いられるためには、ともかくイエス様の言葉に聞き従うことです。「子ろばを連れてきなさい」と言われた通りにしたら、本当に御言葉どおりのことが実現しました。子ろばの持ち主も用いられました。子ろばもイエス様をお乗せするために用いられました。
 昔の人が預言していました。救い主はろばの子に乗ってやってくると。私たちの考えではなく、神さまの御心が実現します。大勢の人たちがエルサレムに入城されるイエス様を歓迎しました。ホサナ、ホサナと歓声をあげました。ホサナとは「主よ、救ってください」という意味です。世の中いろいろと大変です。助けてもらいたいと思うことがあります。神さまが助けてくださいます。助かるためには御言葉を信じることです。
 広い世界に出て、みんながほめてくれるような仕事をしたいと思っていました。それはできませんでした。世の中で私を必要とする仕事も場所もなかったからだと思います。でも、イエス様が必要としてくださいました。小さく、せまい教会という世界で牧師としてずっと働くことができました。色々な人と出会うことができました。ほかの世界のことを知らないので、どうのこうのとは言えません。でも、確かなことは、イエス様を頭とする、イエス様の体である教会が、私を必要としてくれました。教会が私を救ってくれました。とても幸いなことでした。(岸俊彦)

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