2021年11月25日 (木)

聖書の言葉368

その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。(イザヤ7・16)

 ユダ王国にイザヤという預言者がいました。この人は神さまから言葉を預かって、人々や王さまに、こうなるよ、こうしなさいと伝えていた人です。そして、ユダ王国の王さまであるアハズは、とてもなやんでいました。アラムの王さまとイスラエルの王さまが自分の国に攻撃をしかけてこようとしたからです。どうしようと怯えていると、預言者イザヤはアハズ王に語りました。「王さま、落ちついて、しずかにしなさい。こわがらなくていいよと神様が言っていますよ」。そんな落ちついてられるか!と思うでしょう。しかし、これは神さまに信頼し、神さまのみ声を聞くということです。いま、アハズ王がすべきことは静まって神さまの声を聞くことであるというのです。
 イザヤはもうひとつ、アハズ王に預言しました。「わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。おとめとは誰のことでしょう?男の子とは誰のことを言っているのでしょうか?そしてインマヌエルとはどういう意味なのでしょう?
 みなさんも、アハズ王のように怖い、どうしようと不安になることがあるでしょう。神様がイザヤを通してアハズに語った言葉は私たちに語った言葉でもあります。「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」。不安や恐れのなかにある時は、神さまの声に耳をかたむけて、神さまの言葉を固く信頼すればよいのです。(諸橋鷹広)

2021年11月19日 (金)

聖書の言葉367

わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 (マタイ20:14)


 「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前の良さをねたむのか。」主人の言っていることはわかります。主人がお金をしたいようにすることに、文句を言っても仕方が無いのです。けれども、もしも私たちが12時間働いた人たちと同じ立場だったとしたら、どうにも納得できないでしょう。確かに約束した通りだとしても、1時間しか働いていない人よりも、何倍も頑張った自分が報われるのは当然だと思うでしょう。
 イエス様は「天の国のたとえ」としてこのことを話しました。私たちが天の国に行くと、よく似たことが起こるということです。すぐ前のお話に、イエス様が弟子たちに報酬を約束したお話が出てきます。イエス様のために全てを捨てた弟子たちに、必ずたくさんの報酬、特に天の国で永遠に生きることができるという約束が与えられました。けれども、弟子たちが天の国に行ったときに、このぶどう園と同じことが起きるよ、とイエス様は言うのです。イエス様のために全部を捨てて、何十年も頑張ってイエス様のために働いた弟子たちは、他の誰よりも多くの報酬が貰えるのではないのです。それこそ人生の最後の最後でイエス様を信じた人や、全くイエス様のために働けなかったような人にも同じ報酬が与えられるのです。
 教会の中には小さい頃から神様のことを信じている人も居れば、亡くなる直前にベットの上で洗礼を受ける人が居ます。神様のために教会でずっと働く人も居れば、何十年も教会から離れた後に色々なことで教会に戻ってくる人も居ます。みんなが同じ報酬を受けます。教会から離れるときが来るかもしれません。信じないまま大人になるかもしれません。けれども、いつ戻ってきても大丈夫です。神様は信じる人をどんなときも、どんな人も、変わらず受け入れて下さるのです。(狩野進之佑)

2021年11月 4日 (木)

聖書の言葉366

あなたがたの一人一人が、心から兄弟を許さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。(マタイ18・35)

 あなたは、兄弟や友だちにイヤな事されたら許すことができますか? なんで意地悪をするのだろうと悲しくなり、腹が立つでしょう。機嫌が悪かったのかなと思い許す人もいるでしょう。でも、何度も何度も意地悪をされたら、許せなくなり、仕返しをしようと思うかもしれません。
 イエスさまの弟子のペトロがイエスさまに聞きました。「人を何回許せばいいですか?7回までですか?」
するとイエスさまは「7の70倍まで許しなさい」と言いました。490回まで人を許すとはどういうことでしょう。聖書では7は完全数というこれ以上ない数を表し、どこまでも許しなさいという意味です。
 イエスさまはペトロに例え話をしました。「王さまに、1万タラントン(1タラントンは1日のお給料の16年分)お金を借りている家来がいた。王さまは家来に金を返すよう言うと、家来はお金がなかったので「絶対に返すからどうか待ってください」と土下座して謝った。可哀そうに思った王さまは家来を許してあげた。ところが、この家来は自分が100デナリオン(1万タラントンの60万分の1)を貸している人を見つけると首を絞め、「金を返せ」と怒り、返すまで牢屋に入れてしまった。それを知った王さまは、大変怒って家来を呼び「私は、お前が頼んだから借金をなくしてあげた。私がお前を可哀そうに思って許したように、お前も自分の仲間を許すべきではなかったか」と言い、家来を牢に入れてしまった」。
 この王は神さまで、仲間を許せない家来は私たちのことです。自分のやった罪は忘れて、他人の罪ばかり見てしまう私たちに、「まず、あなたが神さまに許されていることを忘れてはいけないよ」とイエスさまは教えています。(酒井由紀子)

2021年10月29日 (金)

聖書の言葉365

これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。(マタイ17・14)

 聖書のお話では、私たちのことを羊に例えることがあります。ここには書かれていませんが、イエスさまは私たちの羊飼いだと他の聖書箇所に書かれています。そこではイエスさまが「わたしは良い羊飼いである」と言っています。そして、私たちの羊飼いであるイエスさまは「1匹が迷いでたら、その1匹を捜しに行かないだろうか」、つまり探しに行くでしょうと話しています。イエスさまは私たちが迷子になっても、1人だけ置いて行ったりはしない、ということです。そして、見つけることができたら、その1匹のことを喜ぶだろうと語っています。それは、たくさんいるうちの1匹を見つけた、というのとは意味が違います。100匹みんないるかどうか、その数が合えばそれでいいというのではありません。イエスさまは、とても大切に想っているあなたのことを見つけたよ、あなたのことを見つけられてよかった、嬉しいと喜んでくれている、ということです。
 それでは、迷ってしまった1匹のことを喜んでくれるのなら、迷わずにいた99匹のことは喜んでくれないのでしょうか?決してそういうことではありません。イエスさまは、迷わないで一緒にいてくれたことも、喜んでくれます。だけど、探していた1匹を見つけることができた時のイエスさまの喜びは、残りの99匹にとっても、同じように嬉しくて喜びである、ということがここでは語られています。また、このことから、私たちの帰る場所は、イエスさまがいる場所であるということが分かります。そして、イエスさまが羊飼いとして、私たちを導いてくださることを信じています。イエスさまがいる場所へと迷わずに帰ってくることができるように、私たちには聖書が与えられているのです。私たちを導いてくださる羊飼いの声として、イエスさまの言葉を聞くことで、私たちは教会から離れることのないように、教会に行こうと考えるようになります。そして、私たちのことを大切に想ってくれるイエスさまが、いつも一緒にいてくださることを、礼拝で思い出します。だから、私たちにとって礼拝は生命線だと言われています。礼拝は、自分の命を保つために欠かせないということです。
 ですから、私たちがいつもイエスさまの声を聞くことができますように。この声にしたがって、イエスさまがいる場所へと戻ってくることができますように。そして、私たちが聞く耳と心を開くことができますように、みんなと一緒にお祈りしたいと思います。(菊地信行)

2021年10月21日 (木)

聖書の言葉364

これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。 (マタイ17・5)

 イエス様は弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られました。山頂でイエス様が祈っておられると、そのお姿が白く輝く姿に変わりました。顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。そしてイエス様のもとにモーセとエリヤが現れたのです。モーセは旧約聖書の世界で神様から律法をいただいた人。エリヤは神様の言葉を預かり人々に伝えた預言者です。二人ともイエス様のご誕生のはるか昔に、神様のみ言葉を人間に伝えるために大きな働きをした人たちなのです。
 この信じられない光景に、弟子たちは大興奮しました。その時です、光輝く雲が彼らを覆い、神様のお言葉が聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞けと。弟子たちはおそれのあまりに地にひれふすことしかできませんでしたが、イエス様は「恐れることはない」というお言葉をかけて、手で触れてくださいました。
 弟子たちが顔を上げると、モーセもエリヤもそこにはいませんでした。メシア(救い主)であるイエス様のお姿だけがあったのです。このことは、旧約聖書の時代にモーセがいただいた律法や、預言者たちの言葉を超え、これからはイエス様のお言葉により頼んで行けばよいのだ、ということを表しています。神様がご自分のひとり子であるイエス様に、わたしたち人間を導くことを託されたのです。
 なんという輝かしい栄光の光景でしょう。その栄光と同時に、イエス様が受ける苦しみ悲しみが近づいています。イエス様はただわたしたち人間の偉大な指導者というだけではありません。ご自身の十字架の死によって、わたしたちの罪を背負ってくださる神のひとり子なのです。(石室優子)

2021年10月15日 (金)

聖書の言葉363

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。           (マタイ16・24)

 イエス様は弟子たちに自分が十字架につけられて殺されてしまうこと、けれどもそれで終わりではなくて、三日後に復活するというお話をしました。このことは本当に起こったことです。ペトロや弟子たちもイエス様がたびたび人から憎まれていたことは知っていました。ですが、それでもまさかイエス様が殺されてしまうなんて、このときの弟子たちには信じられません。これを聞いたペトロさんはイエス様を連れ出して、怒鳴りつけてしまいます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません!」
 そんなペトロに、しかしイエス様は仰います。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」サタンというのはヘブライ語で「邪魔をする者」という意味の言葉です。ペトロはイエス様が神様の求める正しい生き方をして、偉い人と言い争ったりするのは止めて欲しいと思っています。けれども、それはイエス様が生きようとする道、神様の御心に従って生きる生き方を、邪魔することに他なりません。神様のことではなくて、人間のことを思っていることです。それはペトロが神様の思いを無視して、自分の思い通りにイエス様を、神様を動かそうとしたということでもあるのです。
 私たちはつい、私たちの気持ちで、私たちの思い通りに神様を動くことを願ってしまいます。しかしイエス様は仰います。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」私たちにとって大事なのは、神様を自分の思い通りにすること、自分の願い事なんでも叶えてもらうことではありません。神様は人間の思い通りになりません。私たちが、神様の思い通りに生きていくのです。最後には自分の思いを捨てて、神様に従っていくのです。どんなに思い通りにいかなくても、その先に、まだ神様が私たちに望んでいる生き方がある。そこに期待して生きるのが私たちの生き方です。(狩野進之佑)

2021年10月 8日 (金)

聖書の言葉362

あなたはメシア、生ける神の子です。(マタイ16・16)

 私の住むアパートの向かいには小学校があり、ここ最近は連日運動会の練習が行われており、運動会のBGMと児童と先生の声がよく聞こえます。そして、運動会の定番、選手宣誓を練習する声も聞こえてきます。
 宣誓とは、皆の前で口に出して約束することです。選手宣誓なら、これから正々堂々と戦うことを誓うのです。私たちは普段の生活の中で、口に出して誓うことはあるでしょうか。キリスト教では、洗礼式や結婚式などで神様に対して、神様を信じること、互いに愛し合うことを誓います。
 今日の箇所で、イエス様は弟子たちに「あなたがたは私を何者だと言うのか」と尋ね、ペトロが弟子を代表して、イエス様が「メシア、生ける神の子」であると告白しました。告白も誓いに似て、皆の前で口に出して打ち明けることです。イエス様より前の時代、神様の御言葉を人々に伝える預言者はいましたが、ペトロはイエス様が救い主であり、神様の独り子であると告白したのです。イエス様はこの時すでにこの後自分が十字架にかけられることを知っていて、ペトロの信仰告白を聞いて安心されました。自分がいなくなった後もペトロが伝道できるよう必要な力を授け、自分はペトロの信仰告白の実現のために、私たちのために命を懸けられたのです。
 私たちは礼拝で一緒に信仰告白を告白します。神様とイエス様を信じます、と口では語りますが、本当に信じているでしょうか。イエス様は私たちと神様を繋ぐために、私たちの罪を一身に背負い、十字架にかかって復活されました。そんなイエス様に「あなたは私を何者だと言うのか」と問われたら、信仰をもって「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えられるよう、これからも一緒に神様の御言葉に聞きましょう。(原 良介)

2021年9月27日 (月)

聖書の言葉361

イエスはすぐに彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。(マタイ14・27)

 イエス様に促され、船で湖に漕ぎ出した弟子達は、暗闇の中で逆風と波に翻弄され、不安と恐れの中にいました。イエス様は山の上での祈りを終えて明け方近くに湖の上を弟子たちのところに歩いて渡っていらっしゃいました。
 弟子たちは幽霊かと驚き恐れます。イエス様の「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」その力強く温かいみ言葉に安心する弟子たち。イエス様がいて下さればもう大丈夫。どんなに安心したことでしょう。イエス様はいつも私たちの不安と不信仰を取り除いてくださいます。
 ペテロはイエス様を信頼しイエス様が「来なさい。」と命じてくだされば自分も湖の上を歩けると信じました。イエス様に向かって歩き出すペテロ。それでも途中で強い風に恐ろしくなりイエス様から心が離れてしまった時沈みかけてしまいます。「助けてください」とペテロが言うとイエス様はすぐに手を差し伸べて助けてくださいました。信じ切れずにいた弱い心のペテロを嘆きながらも救ってくださいました。
 私たちもペテロと一緒です。不安な事、悲しい事、いろいろなことに出会うたびに心がぐらついてしまいます。私たちの弱さも信仰の薄い者であることもすべてご存じのイエス様です。それでも手を差し伸べ救って下さるイエス様です。共にいて下さるイエス様です。私たちがいつも神様のほうを向いて信仰をもって歩いていけるように祈り、励まし、先頭に立って導き、時には優しく背中を押して一緒に歩いて下さる方がイエス様なのです。イエス様は私たちの救い主。そしてそのイエス様を私たちのもとに送って下さった方が神様です。その大きな愛を、恵みを感謝して祈りつつ過ごしていきましょう。(小嶋幸子)

2021年9月25日 (土)

聖書の言葉360

五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。 (マタイ14・19-20)

 洗礼者ヨハネがヘロデの命令で殺されました。イエスさまとお弟子さんたちも身の危険を感じ、人里離れた場所へと向かいました。すると人々はイエス様についてきたのです。その当時、ユダヤの人々は弾圧されていた(いじめられていた)ので、イエス様なら私たちを救ってくれる、助けてくれると考えたのでしょう。イエス様はついてきた人々を見てかわいそうになり、病人を治したり励ましの言葉をかけてあげました。
 そうこうしている間に夕方になりました。そろそろ夕飯の時間です。イエス様はお弟子さんたちに、「人々に食べ物を与えなさい」というのです。しかし、お弟子さんたちが持っているのは5つのパンと2匹の魚です。数えてみると5千人の人がいるではありませんか。どう考えても足りません。お弟子さんたちは困ってしまいます。しかし、最後にはこの5つのパンと2匹の魚で5千人のお腹はいっぱいになりました。とても信じられないですよね。
 さて、このお話が伝えたいことは一体何なのでしょう?イエス様を信じれば働かなくても空腹にならないということでしょうか。お祈りをしておけば勝手に食べ物が増えるから安心ということでしょうか。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書すべてに記されている、この「パンの奇跡」のお話についてよく考えてみましょう。(諸橋鷹広)

2021年9月18日 (土)

聖書の言葉359

天の国は次のようにたとえられる。(マタイ13・44)

 イエス様はみんなに話をするとき、たとえ話を使ってお話をすることがありました。福音書はイエス様のやったことや、話したことをたくさん集めてまとめたものです。その中にはたとえ話がたくさん出てきます。今日読んだ箇所だけでも3つのたとえ話が出てきます。それだけみんな一度聞いたら忘れられない、印象深いたとえをイエス様がしたということでしょう。
 たとえ話だと、普通に話してもなんだかつまらなく感じることも、ちょっと違って聞こえます。たとえば今日の最初の2つのたとえ話、どちらも言おうとしているのは「天の国を見つけたら、全力でそれを求めよう」ということです。それをたとえ話にしてイエス様は話します。偶然お宝を見つけた人が、手に入れるために持ち物すべて売り払ってしまう。また探し求めていたものを見つけたとき、手に入れるために持ち物すべて売り払ってしまう。聞いているとその様子が思い浮かんでくるようなたとえ話をするのです。神様を求めるとはどういうものか、宝を手に入れようとする人の必死な顔、手に入れた時の幸せそうな顔を思い浮かべれば、わかります。
 3つ目のたとえ話は「神様は良い人と悪い人を見分ける」こと、そして「悪い人は最後には神様が裁いて下さる」ことを教えています。漁師さんは湖に網を仕掛けて、たくさんの魚を捕まえます。きっと朝早くに湖の近くを散歩していると、漁師さんが捕まえた魚を、食べられるものと食べられないものに分けているのを見ることができたでしょう。そして食べられない魚を最後に捨ててしまうのも知っています。神様も同じように、良い人か悪い人かを見分けることができます。食べられない魚が最後には捨てられてしまうように、神様も悪い人を最後には裁かれます。捨てられる魚を見て、最後に神様に捨てられる悪い人の生き方がどんなに悲しいかがわかります。目に見えない神様の世界の様子を、イエス様は目に見えるような言葉にして教えて下さったのです。(狩野進之佑)

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