2019年7月20日 (土)

聖書の言葉266

あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。      (サムエル記下7:16)

王様になったダビデは立派な宮殿に住むようになりました。ダビデはここまで王様になるまで助けて下さった、こんな立派な建物に住めるようにして下さった神様のために、大きな神殿を建てようと思いました。しかし神様は言います。私は神殿を建ててもらうためにダビデを選んだわけではない、と。イスラエルの人々が安心して生きていけるように、イスラエルがこれからも神様に選ばれたものとして正しく生きていくための指導者として、ダビデを選んだのです。神様はお返しが欲しくて人を助けたり恵んだりしているのではありません。イスラエルの人々が、ダビデが、自分と一緒に歩んでほしい、生きてほしい。それがどんな立派な建物よりも、神様が喜ぶことなのです。
これまで神様と一緒に歩んでいったダビデに、神様は新しい約束をします。これまでのダビデの歩みは、神様がダビデを王様にするという約束に、その約束を守るために与えられる神様の助けによって支えられてきました。そんな助けのおかげで、今や新しい王様になったダビデのために、神様は次の約束をして下さったのです。イスラエルの人々が安心して暮らせるように、攻めてくる敵の国を倒せるようにすると約束します。ダビデの家、ダビデの子供たちをこれからも神様が守ると約束します。
この約束を受けて、ダビデは王様として再出発します。けれども、神様と一緒に歩むことは難しいことです。ダビデも多くの失敗をします。けれどもダビデは失敗するたびに神様に素直に謝って、もう一度神様と一緒に歩もうとします。これがダビデのすごいところです。なかなかこうはいきません。しかし、素直になれない私たちを、イエス様は助けて下さいます。何も言葉が見つからない時も、イエス様の教えて下さった祈りを祈ると、もう一度神様と一緒に歩み出すことができるのです。(狩野進之佑)

2019年7月11日 (木)

聖書の言葉265

わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。(サムエル上17・45)


 A国とB国が戦っています。A国には大柄で、言葉は乱暴で、力も強い人がいました。B国の人々は怖がっています。何かしたら武力で自国がつぶされてしまう…。どうしたら、自分たちを守れるのだろう。いつの時代も、どこかで戦いがあって、権力争いがあります。また身近なところでも、立ち行かない、どうしたらいいのか分からない出来事があります。そのような時、私たちに求められている行動とは何なのでしょうか。
 今回の聖書箇所ではペリシテ人とイスラエル人が戦っています。ペリシテ人には体の大きくて乱暴者のゴリアテという人がいました。イスラエル人は彼をこわがり、どうしたものかと困っていました。そこへやってきたのが小さいからだのダビデ。イスラエルの王サウルにダビデは言いました。「僕が戦います。」初めはそこにいる誰も、ダビデがゴリアテに勝てるとは思いませんでした。しかし、彼はやってのけたのです!武装するゴリアテをたった一つの石ころで「えいっ」と倒してしまいました。
 どうしてダビデは勝てたのでしょうか。ゴリアテとダビデには大きな違いがありました。それは、「神様を信じているかどうか」です。ダビデは、剣や槍がなくても神さまが助けてくれることを知っていました。その信頼がダビデを救い、ゴリアテを倒したのです。
 皆さんには「もう勝てっこない」と思う時があるでしょうか。戦いの話だけではありません。家族や友達との関係、勉強、部活、仕事…。ただ生きているだけでも、大きな問題が自分の前に立ちはだかる時があります。そのような時、ダビデという人を思い出してください。それは、遠い昔の人ごとの奇跡物語としてではなく、「私たちは神さまを信じることによって強められるのだ」という確信としてです。
私たちの信じる神さまは「勝てっこない」と思う時に私たちを励まし、不安や困難に打ち勝つ強さを与えて下さいます。(村松真友子)

2019年7月 2日 (火)

聖書の言葉264

あなたたちは今日、あらゆる災難や苦難からあなたたちを救われたあなたたちの神を退け、『我らの上に王を立ててください』と主に願っている。(サムエル上10・19)


 サムエルは預言者として、イスラエルの人たちに神様の言葉を伝えてきた人です。イスラエルは神様を信じる国なので、国の大事な決めごとも預言者サムエルが行いました。しかし、サムエルが年を取ると、人々は言いました。「イスラエルにもほかの国のように人々を裁く立派な王様が必要です。王様を立てましょう。」サムエルは困りました。イスラエルの王様は神様ですから、正しく生きていくためには人間の王は必要ありません。サムエルが神様に祈ると神様は答えました。「王を立てなさい。人々は神以外に王はいらないことを知っているのに、神に従うだけでは満足できないから王を欲しがるのだ。彼らの望むどおりにして、真実を知ればよい。」
 サムエルは、全部族のなかからくじ引きを行い、一人の若者が選ばれました。名前をサウルといい、美しく優しい若者でした。サウルは神様が王に選んだ人です。サウルは自信がなくて隠れていましたが、神様のお考えに従いイスラエルの王となりました。こんな頼りない若者がとサウルをバカにして従わない人もいましたが、サウルは許しました。王としてイスラエルを守り、隣の国との戦争に勝ってヤベシュという町を取り返すと、サウルは大人気になりました。サウルは王として大きな力を得て段々何でも自分できるような気になり、ある時、祭司だけが取り仕切ることができる礼拝を勝手にやってしまいます。サウルは神様に選ばれ助けていただいたことも忘れて、神様の言うことに従わなくなりました。サムエルは、とうとうサウルを王から退かせ、代わりに神様に従う者であるダビデを王にしました。
 正しく生きていくためには、神様に従うことを忘れてはいけないのです。(酒井由紀子)

2019年6月26日 (水)

聖書の言葉263

あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。(ルツ1・16)

今日の聖書の箇所には、ナオミとルツという2人の女性が登場します。
 ナオミはイスラエルの民でしたが、イスラエルの食糧不足から逃れるため、モアブという外国に移り住んでいました。ナオミには夫と、2人の息子がいました。しかしモアブの地で、夫は死んでしまいます。2人息子はそれぞれモアブ人のお嫁さんをもらいました。お嫁さんの1人がルツです。ナオミとルツは、お姑さんとお嫁さんという関係です。息子たちの結婚で、やっと安心できたナオミでしたが、なんとこの息子たちは2人とも若くして死んでしまうのです。ナオミと2人のお嫁さんが残されました。あまりに苦しくつらい現実の中で、ナオミとお嫁さんルツは、どのような歩みをしていくのでしょうか?
悲しみ苦しみの中にも神様のご計画は働いています。何もかも失ったように感じる絶望のときも、神様は私たちと共にいてくださいます。神様に導かれ、ルツは大きな決断をします。その先に驚くべき幸福な知らせが待っているのです!
 さあ今朝も一緒に学んで行きましょう。(石室優子)

2019年6月20日 (木)

聖書の言葉262

手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。(士師記7・7)

 みなさんにはお友達がたくさんいますか?うれしいことを一番に話したいお友達、いるでしょうか。では困った時に助けてくれるお友達はいますか?そんなお友達がたくさんいたら、きっと「何があっても大丈夫」って安心ですよね。
 ギデオンには心配なことがたくさん。イスラエルの人たちは本当の神様のことなんか忘れているし、ほかの国の人に食べ物をとられてしまう。突然、神様に「あなたがイスラエルの人たちを救うのです」なんて言われてもっと心配!けれども「私があなたと一緒にいる」という神様の言葉を信じることにしました。戦いのためにギデオンのところに集まってきた人たちは32,000人。敵は数えきれないぐらいいますから、これでは少なすぎます。けれども神様は「多すぎる」と言うのです。戦いに勝った時に「神様なんかいなくても自分たちの力で勝てるんだ!」と言ってしまうからです。32,000人のなかから神様が選ばれたのは、どんな人でしょうか?筋肉があって強そうな人?顔が怖そうな人?かっこいい武器を持っている人?「主の選び」によって選ばれた人たちは、ほんの少しの人たちでした。けれども神様がギデオンにみんなをひっぱっていく勇気と力を与えてくださいました。剣などの武器を使わずにみんなで神様の力を信じチームワークで戦い、ついに敵を追い出すのです。戦う時は「多い」ほうが良い、「強い」ほうがいい、と私たちは考えます。自分が困った時は仲間がたくさんいたほうがいいに決まっている。ギデオンもきっと最初はそうでした。けれどもギデオンの「怖いな」「大丈夫かな」の気持ちも全部知っていた神様が、ずっと一緒にいて、励ましてくださいました。
   私たちはたった一人で戦っている気持ちになることだってあります。けれどもいつも一緒にいてくださる神様、一番の「味方」がいてくだされば「何があっても大丈夫」。心配な時はときは「心配です」って、祈る。私たちといつも共にいてくださる神様のことをおぼえて歩んでいきたいと思うのです。(松浦愛美)

2019年6月14日 (金)

聖書の言葉261

うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。 (ヨシュア記1章9節)

 教会学校ではしばらくモーセという人の話をしていました。イスラエルの人たちはモーセに連れられて、旅を始めました。その間ずっと、神様に守られていました。けれどもイスラエルの人たちは神様を信じきることができませんでした。エジプトから出てしばらくすると、ついにイスラエルの人たちは神様が用意してくれた場所にやってくることができました。体が大きくて、強そうな人々が住んでいました。イスラエルの人たちはそこに行ったら自分たちは殺されてしまう、と泣き言を言い始めます。ついにはモーセではない別の人を立てて、エジプトに帰ろう、と言い出します。イスラエルの人たちは神様を信じられませんでした。神様はついに怒って、イスラエルの人たちを罰します。それで、イスラエルの人々は40年荒れ野をさまようことになり、すごすごと荒れ野に引き返していったのです。
 それから40年、再びイスラエルの人々は神様の用意して下さった場所に帰ってきました。40年前にそこに来た人たちはもうほとんど残っていません。あのモーセも、そこには居ません。そのころモーセは120歳になって、イスラエルを率いる神様の仕事はできなくなりました。モーセは最後にヨシュアという人を後継者として立てました。40年前、神様の約束の地を見たとき、大きくて強そうな人々に恐れなかった人です。どんなに恐ろしいものを前にしても、神様がついていることを本当に信じた人です。
 そのヨシュアに率いられて、イスラエルの人々は神様の約束の地に入ります。イスラエルの人たちは、もう神様を信じられない民ではなくなりました。40年間かけて、神様が自分たちと一緒に居て下さることを知ったのです。
 私たちには怖いことがたくさんあります。神様を信じていても、それは変わりません。もし、どんなに怖くても、立ち向かわなければいけないときがあったら、少し息を吐いて、目を閉じて、神様に祈ってください。ああ大丈夫なんだ、って思えるはずです。「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」のですから。(狩野進之佑)

2019年6月 8日 (土)

聖書の言葉260

わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。(ヨエル3・1)

 ペンテコステは教会の誕生日です。イスラエルではペンテコステは五旬祭と呼ばれていました。五旬祭は五十日という意味です。モーセとイスラエルの人々がエジプトを脱出して、五十日後にシナイ山で神様から十戒が与えられました。イスラエルの人々は出エジプトいう出来事を「過ぎ越し祭」として、十戒が与えられたという出来事を「五旬祭」として今でも大切なお祝いの日として祝っています。
 五旬祭の日エルサレムには多くの人々がイスラエル中から集まってきていました。そんなお祝いムードの町の中で、静かに過ごしている人たちがいました。それがイエス様の弟子達でした。イエス様は十字架で亡くなり3日目に復活して、弟子たちにだけその姿を現しました。そしてイエス様は地上で40日過ごした後、あなたたちに聖霊を与えると言って天に上げられていきました。弟子たちは五旬祭の日集まって、イエス様から頂いた約束が早くかなうようにと静かに建物の中で祈っていたのです。
 突然、激しい風が天から聞こえてきました。そして祈っていた弟子たちの頭の上に炎のような舌が分かれ分かれに現れて、その部屋にいた弟子たちに聖霊が下りました。聖霊を受けた弟子たちは部屋から飛び出し、大勢人がいる前でイエス様のことを語りだしました。五旬祭を祝うために多くの国からエルサレムに来ていた人々は驚きました。なぜなら弟子たちが語っている言葉が自分たちの国の言葉だったからです。この光景に見ていた人は弟子たちが酒に酔っているだけだと馬鹿にしていました。しかしこの時、弟子たちが語る言葉を通して多くの人達がイエス様のことを知り、イエス様のことを信じました。まるで水風船が割れて、水があちこちに飛び出すように、イエス様の十字架の出来事がエルサレムから世界中の人々に向かって飛び出していったのです。(松浦子基)

2019年5月30日 (木)

聖書の言葉259

見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。(出エジプト16・4)

 みなさんはお腹がすいているのに食べる物がなくて困ったことがありますか。おなかがすくと機嫌が悪くなる人もいます。元気がなくなる人もいます。もし食べるものがなくて何日も食べられずにいたらどうなるでしょうか。餓死してしまいます。
 モーセは神様の言葉に従いイスラエルの人々をエジプトの奴隷の生活から救い出しました。しかし神様は、すぐに約束のカナンの地に到着させてくれたわけではありませんでした。海を渡った後は荒れ野を40年も旅することになったのです。
 荒れ野での旅が始まると「おなかがすいた」と人々はモーセに文句を言い始めました。お弁当を持たずにピクニックに行ったとしたら、おなかがすいて、きっと私たちも文句を言うでしょう。人々は「エジプトで死んだ方がましだった。」とモーセに言いました。
 神様は人々の不満を聞き入れ、食べ物を与えてくださいました。朝早い時間に白くておいしい食べ物が与えられました。見たこともないものでした。これを「マナ」と名付けました。マナは必要な分だけ与えられました。欲張ってたくさんとっても腐ってダメになるのです。しかし足りないことはありませんでした。さらに不思議なことに神様を礼拝する安息日にはマナは発生しませんでした。その分だけは前の日に2日分取ることが出来て腐ることはありませんでした。神様を信じて礼拝することが何より大切なことです。40年もの間、人々はマナを神様から与えられ生き延びてカナンへ到着します。
 私たちも毎週日曜日に神様を礼拝します。この大切なことを守っていれば必要なものは神様が与えてくださいます。(綱川めぐみ)

2019年5月21日 (火)

聖書の言葉258

モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。(出エジプト記14章21節)

 皆さんのピンチとはどのような時ですか。迷子になったときでしょうか、試験の点数が悪かったときでしょうか。そのようなとき、どのようにピンチを切り抜けるでしょうか。それこそ文字通り「神頼み」でしょうか。
 先週はモーセが神様からエジプトで奴隷となっているイスラエル人を救い出すよう召命を受けた場面でした。今日はその続きで、モーセが彼らを導いてエジプトから脱出する箇所です。イスラエル人を連れ戻そうとするエジプト軍がすぐ後ろまで迫り、必死に逃げるものの、彼らの前には海が広がり、それ以上進めません。絶体絶命のピンチです。皆が最早これまでと思っていたところ、神様の力によってモーセが海を二つに分かち、現れた海の底を進むことで難を逃れました。一方、追っ手のエジプト軍は元に戻った海に飲み込まれ、それ以上追うことができませんでした。
 神様のなさる御業は我々の想像を超えています。しかし、奇跡よりも大切なのは、ピンチの時に私たちが神様とどのように向き合うかです。ピンチになると人は弱いものです。今日の箇所の前で、味方のイスラエル人は荒れ野で死ぬならエジプトで奴隷をしていた方がましだと、モーセに食って掛かります。ピンチに直面すると怒り、嘆き、神様を恨むこともあるでしょう。なぜ私ばかり苦しい目に合うのか、なぜこのようなことになるのかと。生きる意味さえ見出せなくなるときもあるかもしれません。
 しかし、神様は常に私たちのために戦っておられます。神様の独り子であるイエス様も我々の罪のために、私たちの代わりに戦ってくださいました。私たちは神様が備え、イエス様が切り開いてくださった救いの道を信じ、ピンチの時ほど静まって祈るのです。それが私たちの神頼みです。(原 良介)

聖書の言葉257

今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。(出エジプト3・10)
 
 モーセはエジプトの王女の子供として育てられましたが、イスラエル人がエジプト人に鞭打たれているのを見て、鞭を打っていたエジプト人を殺してしまいます。そのことが人に知られて、怖くなったモーセはミディアンというところに逃げていきました。ミディアンに逃げたモーセはそれからずっと羊飼いとして生活していました。
 今日のお話は、モーセがイスラエルの人々を助け出すために、神様に呼ばれたときのお話です。あるときモーセは羊の世話をしている内に荒れ野にやってきます。荒れ野は乾燥していて、ほとんど辺り一面岩ばかりですが、ところどころにあまり背の高くない木が生えています。モーセはその木の一本が燃えているのに気がつきます。燃えているけれども、ちっとも燃え尽きない。不思議に思ってモーセが近づくと、そこで神様の声を聞くのです。
 モーセはそこでイスラエルの人をエジプトから連れ出すように、と神様に命令を受けます。けれどもモーセはこの神様の命令を断ります。一度ではありません、いろいろ理由を付けて神様の命令を断ろうとします。イスラエルの人たちは自分の言うことなど聞いてくれないだろうから。自分は話すのが苦手だから。ついには神様を怒らせてしまいます。
モーセはずっと昔の人ですが、今でも世界中で尊敬されている人です。けれどもモーセが尊敬されるのは、決してモーセ自身がみんなを導く力を持ったリーダーだったからではありません。神様が大事な仕事のために選んで、そのために必要な力を神様が与えているのです。モーセの強さはモーセを導く神様の力そのものなのです。(狩野進之佑)

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