2020年2月26日 (水)

聖書の言葉293

「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが」。(使徒26・29)

 今日は、イエス様を信じるようになったパウロという人のお話です。パウロさんは、はじめはイエス様を信じる人たちをつかまえたり、迫害したりしていました。そんなパウロさんでしたが、神様の声を聞いて、神様を信じるようになったのです。それからは、神様の言葉をたくさんの人に伝えようとユダヤの人だけでなく、世界中に伝えていこうと考えて行動しました。
 しかし、神様のことを伝えるパウロのことをきらった人に捕まえられてしまったのです。そして2年間も牢屋に入れられてしまったのです。でも、正しいことをしていたパウロさんは偉い人の前でも自分のしていることを堂々と話したのです。それはどういうことかというと、自分は聖書のことを信じていること、そして、神様に出会ったこと、自分の信じるままに神様のことを話したのです。そうして、それで人々にうそをついて混乱させようとしたわけではないことがはっきりしました。それでも、神様の真理を貫き通したことで、釈放されなかったのですが、そのことで、かえってユダヤの地から遠いローマにまで、神様のことばを伝えることができることになったのです。そのおかげで、世界中の人たちが、神様のことを知り、今では世界中に神様を信じる人が広がりました。それが神様のご計画だったのです。必要なものは、かならず神様は容易してくださる。安心して神様のことをみんなに伝えていくことが大切なのです。
 みなさんもこれから成長するなかで、いろいろなことがあるでしょう。いいこともわるいこともあるでしょう。でも、かならず、神様の計画があるのです。しっかりと神様を信じていれば、まもってくださいます。あなたのことを神様は必要としているのです。そして、神様の為にはたらく道を用意してしてくれています。いつでも神様を信じて生きていくことがとてもたいせつなのです。(大友太郎)

2020年2月21日 (金)

聖書の言葉292

「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」。(使途18・9-10)

 旅するパウロ。今回の旅先は大都市コリントです。これまで旅の厳しさから、パウロは不安を抱えていました。しかもコリントはお酒をたくさんのんだり、人を大切にしない振る舞いをしたりする人が多い町です。そこで、神さまはキリスト者2人との出会いを与え、パウロに住む場所と仕事を与えて下さいました。だからパウロは、神さまの言葉を細々と伝えることができました。更にそこへ、パウロのお供であるテモテとシラスがたどり着きます。二人の到着によって与えられた神様の恵みを感じ、パウロは伝道を一層頑張るようになりました。ところがコリントの人々はひどい言葉を言ってきます。パウロは神さまの言葉を聞かない人に、自分の罪の責任を自分で負うことになるのだぞと伝え、その場を去りました。逃げたのではありません、新たに他の人へ伝道をすることとしたのです。またいじめられるかもしれないと不安も抱えるパウロに、神さまは励ましを下さいました。「恐れてはいけない。黙ってはいけない。私があなたと一緒にいる。誰もあなたを襲って傷つけたりしない。この町には私を信じるものがたくさんいるのだから」。神さまがそばにいること、コリントは神さまを必要としている町であることを知りました。コリントのだらしない人々は、本当はお酒などでは満たされないむなしさを抱えていて、神さまの愛を求めていたのかもしれません。パウロの言葉は次第に聞かれるようになりました。
 パウロはたくさんの浮き沈みを経験しては神さまに支えられ、歩んでいました。私たちも、毎日嬉しいことがあったり悲しいことがあったり、気づいたら自分の計画優先の、自己中心的になっていたりしています。パウロから学べることは、自分の計画よりもずっと大切なことがあるということです。神さまのご計画です。怖くても、不安でも、与えられた場所でするべきことを神さまに伺いながら、行動していくことの大切さを知りました。新しい週が始まります。それぞれの場所で、いつだって励まして下さる神さまを信じ、人を大切にする歩みを送りたいと思います。(村松真友子)

2020年2月13日 (木)

聖書の言葉291

真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。(使徒言行録16:25)

 神様に決めてもらった道を進む、ということはとてもうれしいことです。不安ももちろんあるけれど、それよりもずっと希望があります。パウロは神様に命じられてフィリピに到着しました。きっとここですばらしいことが待っているに違いない!パウロもそう思ったのではないかと思います。しかしパウロたちはフィリピで牢屋に入れられてしまいます。神様に遣わされたところでこんなことが起きたら、普通めげてしまうと思います。神様は私たちをつらい目に遭わせるために、この場所に行けと言ったのだろうか。そう思ってもおかしくないと思います。
 けれども、牢屋の中のパウロたちは、真夜中も賛美の歌を歌っていました。これは牢屋の中にいる人にとっても不思議なことです。牢屋の中です。いつもはうめき声、叫び声、怒鳴り声ばかりが響いていただろう牢屋です。そういう場所で、神様をたたえる歌声が響いてくる。囚人たちもそれに聞き入ってしまいます。こんなところでも、神様をたたえて、神様に祈る人が居る。それはきっと囚人たちにとって大きな驚きだったはずです。この夜、大地震で牢屋の戸が開いてしまいます。しかし、誰一人逃げていきませんでした。パウロたちの賛美を聞いていて、もう新しい罪を重ねる気持ちなんてすっかり失せてしまっていたのかもしれません。
 このことで命拾いした看守は家族揃って主イエスを信じるようになりました。確かにパウロは思いもよらない苦しい目に遭わされました。けれども、このとき確信したでしょう。自分がこのために牢屋に入れられたのだということを。本当に人間には思いもよらない神様のご計画が、確かにここにあったのです。(狩野進之佑)

2020年2月 7日 (金)

聖書の言葉290

「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」。(使徒言行録16・9)

 私は化粧品屋さんの家に生まれました。私が子供の頃、お父さんもお母さんも若くて元気で、お店はとても忙しく、お休みの日はほとんどありませんでした。学校が休みのときもお店はやっているので、ほかのお友達のように親とお出かけや旅行にも行けません。なんで僕だけ...と思いました。
 お店のお客さんに教会の人がいました。「教会学校においでよ」と言われたので、教会学校に通い始めました。楽しい行事があったり、キャンプに連れていってもらえるので、お店が忙しくてもへっちゃらだと思いました。本当はお父さんお母さんともっと遊びたいなと思っていたけれど、教会に通うという道が思いもよらずあたえられました。お友達が沢山できました。神様とお話しできるようになりました。
 自分の希望とは違う方向に人生が進んでいくことがあります。どんなに願ってもかなわないこともあります。
 今日読む聖書では、パウロが色んな旅を計画します。神様のことを遠い外国の人々に伝えるための旅です。しかし、どうしてもその計画はうまくいきません。行きたいところはすべて、色んな理由で行けなくなってしまうのです。困りはてて進んで行くとさみしい海辺の町にたどりつきます。陸地には神様のことを伝えていない国がまだまだあるのに海辺なんかに着いてしまうとは...
 そのときパウロはマケドニア人の幻をみます。幻は「海を渡って、私たちを助けに来てください」と言いました。これは神様のご計画だ!パウロは気持ちをきりかえて海のむこうへ出発です。自分の計画なんて変更です!
 こうして遠く海をこえて神様の言葉は世界に広がって行きます。時が流れ、神様の言葉は日本にも、みんなのもとへも伝わりました。(石室裕一)

2020年1月30日 (木)

聖書の言葉289

彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために」。(使徒言行録13:2)

 アンティオキアの教会ではユダヤの人々以外の異邦人・他の国の言葉を話す人たちにも主イエスのことが知らされ、たくさんの人がその福音を信じるようになりました。イエス様が私たちの罪を神様に許してくださいとお願いして下さるためにこの世に来てくださったこと、そのために十字架にかかってくださったこと、3日目に神様がイエス様を死の苦しみから解放して復活させてくださったこと、いつも神様と一緒にいて私たちを見守って導いてくださること、イエス様を信じればみんな祝福していただけるという福音(喜ばしい良い知らせ)神様の愛を信じるようになりました。この時から私たちはクリスチャン・キリスト者と呼ばれるようになりました。
 ある時アンティオキア教会で皆が主を礼拝していると聖霊が告げました。「バルナバとサウロ(パウロ)を選んで主の福音をもっとたくさんの人たちに伝えるために旅に出発させなさい」と。たくさんの人にこの福音を告げるために神様がご計画されたのです。そこでみんなは2人が無事にその役目を果たせるように祈って送り出しました。アンティオキアの教会で熱心に福音を伝えた仲間を旅に出すことはきっと寂しかったことでしょう。でもみんなはそれが神様のご計画なんだと信じて祈って送り出しました。
 パウロはここから3回も長い旅に出てイエス様のことを伝え教会を開きました。旅をする間にたくさんの手紙を書いてみんなにイエス様のことを伝えました。それが聖書の中に入ってます。そのおかげでエルサレムからずっとずっと遠くに住む私たちにもイエス様の教えが伝えられるようになったのです。この教会からもたくさんの人が神様の御用のために送り出されていきます。私たちも祈ってその時を大切に思いましょう。(小嶋幸子)

2020年1月24日 (金)

聖書の言葉288

どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。(使徒言行録10・35)

 コルネリウスはいつもお祈りをしていました。ある日、天使があらわれ「あなたのお祈りは聞かれました。ペトロと呼ばれる人を招きなさい」と言われました。
 一方で、イエスの弟子だったペトロにも不思議なことが起こっていました。「神が清めたものを清くないと言ってはならない」と神様の言葉を聞いたのです。ペトロはコルネリウスのところへ出発します。コルネリウスが住んでいたカイサリア、ペトロがいたヤッファは距離で言うとだいたい50キロメートルくらいです。けれども2つの場所の間には見えない大きな壁がありました。当時、ユダヤ人が外国の人と会ったり、お話したり、お家にいったりすることは法律で禁じられていました。ペトロにとって、コルネリウスは異邦人だったのです。ペトロは御心を信じ、カイサリアで神様のお話をしました。「どんな国のひとでも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」。コルネリウスとペトロ、2人にそれぞれ不思議なことがおこりました。先週の狩野先生のお話では、サウロにも不思議なことが起こっていました。今日の聖書の箇所に出てきたコルネリウスにも、ペトロにも、それぞれに神様との出会いがあり、そして戸惑いもあったと思うのです。けれども一人ひとりがそれぞれの力だけで頑張ったのではなくすべてのことが神様の計画のなかでおこなわれ、伝道が実現したのでした。このことは、それまでユダヤの人たちのためだった神様の言葉が異邦人へ伝わった大きな出来事になりました。私達も、人と人を見えない壁でわけていることがあるかもしれません。同じ国にいても、もっと身近な学校のお友達でも、いつも一緒にいる家族でも…「神様は私たちを分け隔てません」。ペテロの語った神様の言葉は世界中に広まっていき、今その言葉を聞く「私たち」につながっているのです。(松浦愛美)

2020年1月17日 (金)

聖書の言葉287

主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒言行録9:5)

 イエスさまは復活して、天に昇った後、弟子たちは言われたように、人々にイエスさまのことを伝えていました。どんな人にも聞いて欲しい嬉しい知らせです。でも、それを喜ばない人達も居ました。後にパウロと呼ばれるようになるサウロもその一人でした。
 サウロはファリサイ派という人たちのもとで、神様のことを学んでいました。そして、だれよりも神様に仕えて、正しい人として生きていこうとしていた人でした。そんなサウロはあるとき、イエスさまと、その弟子たちのことを知りました。サウロはその弟子たちのことを、間違ったことを人々に吹き込んでいるとんでもない連中だと思いました。「あの連中はイエスという男が自分たちユダヤの人々が待ち続けてきた救い主だと言っている。しかも、神様は天におられる神様ただお一人であるはずなのに、人間であるイエスを神の子だと言って拝んでいる。けしからん連中だ。神様のために、そんな連中は野放しにしてはいられない。一刻も早くみんな捕まえて、殺してしまおう。」そんなふうに意気込んでいました。
 サウロはイエスさまの弟子たちを捕まえるために旅に出ました。するとその旅の途中、天から光が降り注ぎ、サウロも一緒に居た他の人々も倒れてしまいます。倒れたサウロにイエスさまが語り掛けます。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」サウロはこれは神様の声に違いないと思いました。けれども、自分は神様のために頑張っているのに、迫害しているとはどういうことだろう。「あなたはどなたですか」とサウロが聞くと、答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」そうしてはじめて、サウロはイエスさまが神様だと判ったのです。
 イエスさまを知ったサウロは、くるりと向きを変えるように、人が変わりました。イエスさまを迫害する人から、イエスさまを信じる人に。思いもよらないような、不思議な神様の御計画によって、サウロはイエスさまを伝える働きを与えられたのでした。(狩野進之佑)

2020年1月 7日 (火)

聖書の言葉286

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28・20)

 クリスマスに誕生し、十字架に磔になって死なれたイエスさまのことを伝えたのは弟子たちでした。実は死者の中から復活したイエスさまが弟子たちを励まし、イエスさまのことを伝えるように命じられたのです。世界中でクリスマスが祝われ、毎日曜日教会で礼拝をするのは、復活されたイエスさまが、いつも私たちと共にいてくださると信じるからです。
 ある方が入院していた家族をお見舞いした帰り、ある教会の前を通りました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と書かれた看板が目に留まりました。何回かその看板を目にしていたはずなのに、不思議な経験でした。この言葉はイエスさまの言葉です。「神様が私に語りかけてくださっている。教会に行かなければ」と、その方は思ったそうです。
 しばらくしてから、友人だった経堂北教会の人に、「ハレルヤ」を歌いましょうと誘われました。それから経堂北教会に毎週来るようになって、「神様とイエス様と聖霊を信じます」と告白し、授洗しました。あの言葉は、復活されて、今も生きていらっしゃるイエスさまが自分に語りかけてくださった言葉だと分かったからです。
 目にはみえなくとも、イエスさまは、私たちに語りかけ、慰め、励ましてくださっています。天の父なる神様と聖霊と共に生きて、私たちに働きかけてくださっています。
 死者が復活するなんて信じられないことでしょうか。死者が復活したらどんなに素晴らしいことでしょう。神さまは私たちの願いをかなえてくださいます。神さまがイエスさまを復活させてくださいました。復活のイエスさまが共にいてくださるのだから、私たちも復活できるでしょう。(岸 俊彦)

2019年12月21日 (土)

聖書の言葉285

彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカ2・6-7)

 ローマ皇帝のアウグストゥスはローマの平和を実現した皇帝でした。世界中の国をローマのやり方で支配していました。ローマという国がある限り争いは起きない、人々は安心して1000年以上暮らすことができるという平和です。イエス様はそんな時代にお生まれになったのです。
 人口調査をするためにヨセフとマリアもヨセフさんの故郷に帰らなくてはいけませんでした。でもマリアさんのお中には赤ちゃんがいたので、その旅は大変でした。山を越え、荒野を超え、時々休み、マリアさんの様子を見ながらヨセフさんとマリアさんはベツレヘムに向かいました。二人はゆっくり旅をしていたのでベツレヘムにつくころには、泊まる場所がありませんでした。マリアさんの様子も、なんだか苦しそうです。今日にでも赤ちゃんがお中から出てきそうな様子です。ヨセフさんはたくさんの宿屋を訪ねましたが、どこも満杯で入れないと断れてしまいます。マリアさんがもうすぐ出産するかもしれないと事情を伝えて、なんとか宿屋の人が休める場所をつくってくれました。その場所は馬小屋でした。マリアさんは動物が草を食べるための飼い葉桶に、赤ちゃんが生まれるベッドをつくりました。そして夜遅くなり、皆が寝静まっているときにその馬小屋から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきました。イエス様が誕生されました。私達の救い主がこの地上にお生まれになったのです。ローマの平和に安心していた人々は、まさか、救い主が馬小屋で生まれたとは思わなかったでしょう。
 経堂北教会は世田谷の住宅街にある教会です。スキップ通りから少し奥まったところにあります。経堂駅の周りはイルミネーションでクリスマスの雰囲気に彩られています。もしかしたら町の輝きに比べると教会は地味なところに見えるかもしれません。いつも礼拝しているカナンは薄暗くて馬小屋みたいですね。でもイエス様の誕生をお祝いしているのは教会です。私達はこれからもイエス様の誕生をお祝いするために礼拝をささげるのです。(松浦子基)

2019年12月12日 (木)

聖書の言葉284

見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。(マタイ1章23節)

 ヨセフはとても困っていました。ヨセフが結婚を約束していたマリアが、自分と結婚をする前に妊娠しているということがわかったからです。しかも、それだけではない。ヨセフは知っていました。マリアのお腹の中の子どもは、自分の子どもではないのです。マリアの身に何が起こったのだろうか、気になってしょうがなかったけれども、恐くて聞くに聞けなかったに違いない。今でもこんなことが起こったら大変なことですが、当時のイスラエルではもっと大問題です。もしもマリアがこれから結婚するヨセフを裏切っていたとすれば、マリアは死刑になってしまうかもしれないのです。結局悩みに悩んだヨセフは、マリアとの結婚を取りやめにしようとしました。そうすれば、とにかくマリアが殺されるようなことはないだろうと考えたのです。
 そんな不安のなかにあるヨセフが眠っていると、夢に天使が現れます。天使はマリアの身に起こっていることをヨセフに知らせました。神様がマリアという一人の人を通して、世界を救おうとなさっている。とても信じられないようなことでした。どうしてそんなことがあり得ようか。ヨセフの言葉はひとつもここには出てきませんが、そう思っても当然のことです。それでも、ヨセフはこの言葉を信じました。マリアと同じように、自分も神様の御心のままに用いられることを願ったのです。ヨセフは目が覚めると、マリアを自分の妻として、その子どもを自分の子どもとして受け入れました。
 こうしてヨセフは自分の子どもとして、神様の子、イエス様を迎え入れました。ヨセフが迎え入れた時、イエス様はただ神様の子どもというだけではなくて、ヨセフの子どもにもなりました。こうしてイエス様は、神様にいつも背いてしまう私たちと同じ、人間の子どもたちの一人になってくださったのです。見えないお空の上にいるのではなくて、私たちと一緒に居るために、そうして下さったのです。(狩野進之佑)

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