2021年8月 5日 (木)

聖書の言葉353

互いに平和に過ごしなさい。(マタイ9・50)

 私たちは皆、平和に過ごすことを願っているものではないかと思います。あるいは競い合うことがあるとしても、何か互いに禍根を残すような争いの中にではなく、平和の中で競い合いたいと願うものではないかと思います。しかしながら、平和の中に生きることも、爽やかな競争の中に生きることも、やはり稀なことでありましょう。互いに傷つき合うしかない争いの中にある私たちを、主イエスは憐れみ、私たちの平和を願ってこのように語りかけ、平和へと招いて下さるのです。
 しかし悲しいことですが、人間はこの招きに答えられる強さを持っていません。私たち自身平和を願いつつ、平和ではあれないのです。弟子たちもこのキリストの平和への招きを聞きつつも、誰が偉いかを決める争いを続けたのです。そして、教会の歩みもまた、争いを続けた弟子たちと何ら変わるところがありません。教会の中には確かに平和のない争いがあります。教会と教会の間で、信徒と牧師の間で、信徒同士・牧師同士の間で、憎み争い続ける弱さが私たちにあります。
 それでも私たちは、この教会にこそ、キリストの望んだ平和があることを信じます。復活の先にある神の国にその平和があります。そしてその神の国の喜びを祝うこの礼拝にこそ平和があります。神の国を味わう聖餐の中に平和があります。私たちが互いを憎むとしても、心も体も互いに離れたものであるとしても、共に同じ神を見上げるとき、共に同じ神からパンと杯をいただくとき、そこにこそ私たちの一致があり平和があります。               (狩野進之佑)

2021年7月31日 (土)

聖書の言葉352

神は私の証人である。(ローマ1・9 原口尚彰訳)

 パウロがローマのキリスト者のことを覚えていつも祈っていたというのは、本当のことでしょうか。そもそも神が教会の迫害者パウロを福音を告げ知らせるため使徒としたという証拠がどこにあるのでしょうか。彼が開拓した教会の仲間からさえ疑われました。パウロはダマスコの途上で復活のキリストと出会ったとルカは伝えています。同行者は声は聞こえても誰の姿も見えなかったのです(使徒9・7)。大伝道者パウロと知っているから私たちは疑いませんが、当時はそんなことは信じられなかったでしょう。
 疑われても具体的な証言も証拠もありません。苛立つか嘆くか諦めるか。
 パウロはただ主の御前に立ち帰り、主の御前に立ちます。「神は私の証人である」。パウロの自己正当化のためではありません。「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです」(1コリント4・3-5)。主の裁きに自身を委ね、御心のままにとパウロは生きようとします。御心を知り、委ねるために絶えず祈ります。
 祈りは自分の願いと御心の闘いでもあります。御心ではない願いは実現しません(1ヨハネ5・14)。御心(御旨)こそ実現します(箴言19・21)。御心の実現は、私たちの願いをこえた恵みと平安をもたらすのです。御心は私たちの真の救いです。(岸 俊彦)

2021年7月 8日 (木)

聖書の言葉351

だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。(マタイ10・31)

 みなさんには怖いものがありますか?地震やかみなり、オバケ、怖い話、お母さんなどなど。それでは、怖いときみなさんはどうしたら安心できますか?
 イエス様のお弟子さんたちはとても怖がっていました。町や村へ行き、イエス様のことをみんなに伝えることが怖かったのです。なぜでしょう?当時は、イエス様のことを嫌いな人がたくさんいましたからイエス様の弟子だということがバレてしまうと、捕まって、ムチで叩かれたりするかもしれなかったからです。そんな時、怖がっているお弟子さんたちにイエス様は「人々を恐れてはならない」と励ましてくれました。
 神様は、小さなスズメでさえ、ちゃんと知って守ってくださるお方です。そのスズメよりも、まさっている私たちは神様にちゃんと守られています。だから「心配しなくていいよ。」とイエス様は言いました。その言葉に勇気をもらって、お弟子さんたちはイエス様のことをみんなに話しに行くことができたのです。私たちも色々と怖いものがありますが、そんな時はいつもイエス様が横にいて、神様が守ってくださっていることを思い出しましょう。(諸橋鷹広)

2021年7月 1日 (木)

聖書の言葉350

「天の国は近づいた」。(マタイ10・7)

 皆さんはんはどうやって教会に来るようになりましたか? 家族の人に連れてきてもらったのでしょうか。お友達に誘われたのでしょうか。それとも学校で勧められたのでしょうか。私は母に連れられて妹と一緒に教会学校に出席したのが初めです。小学校3年生の時です。
 私たちはいろいろな形で教会に来るようになりましたが、イエス様のお弟子さんたちも自分からイエス様に従った人も、イエス様から「ついてきなさい」と言われた人もいました。その12人のお弟子さんたちにイエス様は国中に行って「天の国は近づいた」と伝えるようにと話されました。もっともっと神様のみことばを伝え、イスラエルの人の中で神様のことを忘れている人に思い出させ、みことばを信じるようにするためです。
 一心にみことばを伝え、困っている人を助ける力をイエス様から与えられたお弟子さんたちは、イスラエルの町で話を聞いてくれる人の家に行って「平和があるように」と伝えて、泊まるようにと言われました。困難なことや思うようにいかなくても、自分たちがイエス様から受けた教えを、自分たちが伝えることが大切だとお弟子さんたちは教えられました。
 私たちもいろいろな形で教会に来て、神様のみことばに聞き、イエス様の教えを学んでいます。私たちが学んだみことばを家族やお友達に話したり、教会学校に誘ったりして、一人でも多くの方が神様、イエス様のことを知ることができるといいですね。(志磨恭子)

2021年6月30日 (水)

聖書の言葉349

イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(マタイ9・22)


 今日のお話は、イエス様に触れたり、触れていただいたりして元気になった女の人と女の子のお話です。
 まず出て来た会堂長は、大切な娘が死んでしまってとても悲しかったのでしょう。イエス様の足元にひれ伏し、来ていただいて手を触れて欲しい、そうすればきっと生き返ると強く願う姿を見て、イエス様はその家に行くことにします。
 会堂長の家に行くためにイエス様がお弟子さんたちと歩いていると、12年も病気が治らずにいる女の人が、イエス様に近づいてきて、後ろからそっとイエス様の服の房に触れました。イエス様に触れたら、きっと自分の病気が良くなるだろう、とすがるように、そっと触れたのでしょう。イエス様は気づかれて振り向き、娘よ、元気になりなさい、あなたの信仰があなたを救った、と言われました。周りの人に相手にされなくても、真っ直ぐにイエス様を信じる心がしっかり届いたのです。
 さて、会堂長の家に着いた時、近所の人々は追悼の意味を込めて楽器を鳴らして騒いでいました。でもイエス様は、少女は死んでいるのではない、眠っているのだ、と言い、家の中に入られました。そして、女の子の手を取ると、その子は眠りから覚めたように起き上がりました。会堂長はどんなに嬉しかったことでしょうか。イエス様に頼ってよかった、信じて良かった、と思ったことでしょう。
 私たちはどうでしょうか。毎日過ごしていると、色々なことがあると思います。悲しいこと、苦しいこと、おともだちと上手くいかないこともあるでしょう。元気にしてください、毎日教えを守れなくてごめんなさい、どうかあなたを見上げて歩ませてください、と毎週礼拝してお祈りする中で、イエス様に触れられたり、イエス様に振り向いて手を取っていただけるはずです。教会に通う中で、イエス様に触れたよ、振り向いて手を取ってもらったよ、と信じても歩む人となれますように。(原 知子)

2021年6月18日 (金)

聖書の言葉348

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マタイ9・13)

 マタイはみんなから税金を集める仕事をしていました。この税金を集める仕事はイスラエルの人々から嫌われる職業でした。イスラエルの人たちが払っていた税金が、イスラエルのためでなくて、ローマ帝国のために使われたから、また、徴税人が必要以上にたくさんのお金を集めて、自分のものにしていたからです。当然、他の人から嫌われます。こんな悪い徴税人たちは絶対に天国に行くことはできないと思われていました。
 けれども、イエス様はそんな徴税人であるマタイに話しかけて、自分の弟子にしました。この人にこそ神様からの救いが必要だ。イエス様はそうお考えになったのです。イエス様はわたしたちに「心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである」と教えています。「心の貧しい人」とは、まさしくマタイのような徴税人のことだと思います。お金持ちでも、悪いことをして、みんなから嫌われていた徴税人の心はきっととても貧しかったに違いない。けれども、イエス様はそんな人に「天の国はその人たちのものだ」と教えました。そういう心の貧しい人のところにも、イエス様がやってきてくれるからです。誰からも愛されない、嫌われるような心の貧しい人のところにも、イエス様がやってきてくれる、一緒に神様のところに行こう、そう言ってくれるから、心の貧しい人も幸いなのです。
 実はわたしたちも、イスラエルの人たちにとっては、天国に入れないと思われていた人間です。そんなわたしたちのところにも、やはりイエス様はやってきてくれました。神様のことを知らない、知っていても神様のことを無視して自分の好き勝手に生きてしまう、そういうわたしたちが、天国に入れるように、イエス様は来て下さったのです。(狩野進之佑)

2021年6月11日 (金)

聖書の言葉347

はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。 (マタイ8・10)

 イエス様がお生まれになったユダヤは、ローマ帝国の支配下にありました。イスラエルの人々はローマの兵隊に従わねばなりません。ローマの百人隊長が近づいてきたので、弟子たちは「何が起きるのだろう?イエス様に何の用だろう?」と大きな不安を感じたことでしょう。
 「おい!そこのお前」と語りかけてきても不思議ではない、その百人隊長は「主よ」とイエス様に語りかけました。イエス様を神様の御子と信じる者だけが「主よ」と呼びかけるのです。百人隊長はイエス様にお願いします。「私の僕が病に苦しんでいます。お助けください」と。
 イエス様は、その僕のところに行こうと言われましたが、百人隊長は「自分はイエス様に足を運んでいただく価値もない者です。この場で治れとおっしゃっていただくだけで治ります。」と言います。社会的にはローマ人の目下とされるイエス様を、百人隊長は心から信じ敬い、より頼んでいます。僕の病はイエス様の御業で癒されました。百人隊長の信仰がイエス様に伝わったのです。
 この箇所を読む時に私は思うのですが、もしも結果として、僕の病を受け入れるようにイエス様が言われたとしても、百人隊長はイエス様のご意志のままに、僕の病に寄り添ったことでしょう。主の御心のままに生きる覚悟を、イエス様は百人隊長に見たのだと思います。
 イエス様の教えは、こうして身分や国籍を超えて世界に広まっていきました。CSに通う皆さんにもどうか信仰が与えられますようにといつもお祈りしています。(石室優子)

2021年5月31日 (月)

聖書の言葉346

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。(マタイ7・7)

 求めると与えてくださる方、門をたたくと開けてくださる方とは誰でしょうか?
 それは父なる神様です。イエス様は私たちに神様のなさることを語っておられます。パンが欲しい自分の子に石を与えたり、魚を欲しがるのに蛇を与える親などいるはずはありませんね。でも親も人間です。子供が欲しいと思うのとは違うゲームを与え、欲しいというからあげたのにかえって勉強しなくなってしまうことがあるかもしれません。でも神様は私たちの父として必要なものをふさわしい時に与えてくださいます。
 父なる神様を信頼していれば、求めれば与えてくださる、私たちが迷っていても見つけ出してくださる、壁にぶつかっても乗り越えさせてくださる、それが神様と私たちの父子の関係です。
 神様は私たちに一方的な繋がりを望んではおられません。私たちが自分に向かってお祈りすることを待っておられます。だから「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。」と私たちに呼びかけられるのです。
 お祈りする時、最初に「天の父なる神様」と言いますね。あれは神様に対する呼びかけです。それこそ神様が私たちに求めておられることです。
 「人にしてもらいたいと思うことは何でもあなたがたも人にしなさい。」とは、私たちに他の人への近づきを勧めています。イエス様の生涯を振り返ってみましょう。神様は私たちのためにイエス様をこの世に遣わし、最も低い者とされ、人々から罵られ十字架を背負わされました。そうして私たちの一番弱い、深い所に近づいて下さったのです。「あなたが人にしてもらいたいこと、それはあなたが赦されたいと願っていること。そのことを隣人にしてあげなさい」。そうできるよう、祈り続けましょう。(尾藤美紗子)

2021年5月27日 (木)

聖書の言葉345

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6・34)

 「人間は悩む生き物だ」という言葉を聞いたことがありますか。本当かどうか分かりませんが、生き物で悩むのは人間だけという説があるようです。皆さんは「思い悩む」ことがあるでしょうか。
 小学生低学年の私は、あるとき急に人は死んだらどうなるのだろうかと怖くなり、夜寝られなくなりました。泣きながらお母さんにそのことを伝えると、お母さんは私のために祈ってくれました。その後は不思議とこの悩みは小さくなり、気づけばこのことで悩まなくなりました。
 私たちは、誰もが何かしらのことで思い悩んでいます。また、一つ悩みが解決しても、すぐまた別の悩みが浮かびます。そんな私たちにイエス様は語ります。着るものや食べるもので思い悩むな。神様は私たちの悩みを知っておられ、必要なものは与えてくださる。だから神様を信じて、明日のことにまで思い悩むなと。先々週学んだ「主の祈り」の箇所でも、イエス様は「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ(マタイ6:8)」と語られました。
 ただ、神様は私たちの悩みを知っていても、解決してくださるとは限りません。そんなとき、なぜ神様は悩む私を助けてくれないのかと思うでしょう。しかし、神様は私たちに必要なことを与えてくださいます。それは、悩みを解決するよりも大事なことかもしれません。悩むことで初めて気づく大切なこともあるでしょう。だからこそ、明日のことまで思い悩まないことです。明日は明日の風が吹く、明日何がどうなるかは私たちには分かりません。神様だけが知っているのです。思い悩むときこそ、私たちは神様に祈り、神様を信じて歩めたらと思います。(原 良介)

2021年5月22日 (土)

聖書の言葉344

一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒2・4)

 今日は聖霊降臨日(ペンテコステ)を祝う礼拝です。ペンテコステは教会のお誕生日と言われています。弟子たちがイエス様のことを世界中に伝え始めた日だからです。教会はイエス様の教えを人々に伝えるための場所なので、ペンテコステは教会のお誕生日なのです。
 さて、この日どんなことが起きたのでしょうか。イエス様は無実の罪で捕らえられ、十字架のうえでお亡くなりになりました。弟子たちは全員、自分も捕まるのを恐れ、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。イエス様は復活されて、弟子たちの前に現れてくださいました。弟子たちはイエス様を置き去りにして逃げたことを心から後悔しました。今度こそ、逃げずにイエス様の教えを人々に伝えるぞ!と決意しました。
 イエスさまは天にお戻りに戻られる前に弟子たちに約束をくださいました。「聖霊があなた方の上にくだると、あなたがたは力を受け、世界中に神さまのことを伝えるようになる」というお約束です。
 弟子たちは不安でした。できるだけ多くの人々にイエス様の教えを伝えたい。今度こそ逃げたくない。でも捕まって殺されるのは怖い。弟子たちはひたすらに祈りました。そこへ突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、炎のような舌が弟子たち一人一人の上にとどまりました。
 弟子たちは怖がっていたのが嘘のように、家を飛び出してイエス様の教えを力強く語りはじめました! 聖霊の力はすごいですね。
 さて、人前で話すことがとても苦手な私ですが、なぜだかイエス様のことを伝えることだけは好きです。聖霊の導きで洗礼をうける決意もできましたし、こうして話をする力も与えられているのだと思っています。(石室裕一)

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