2021年10月21日 (木)

聖書の言葉364

これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。 (マタイ17・5)

 イエス様は弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られました。山頂でイエス様が祈っておられると、そのお姿が白く輝く姿に変わりました。顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。そしてイエス様のもとにモーセとエリヤが現れたのです。モーセは旧約聖書の世界で神様から律法をいただいた人。エリヤは神様の言葉を預かり人々に伝えた預言者です。二人ともイエス様のご誕生のはるか昔に、神様のみ言葉を人間に伝えるために大きな働きをした人たちなのです。
 この信じられない光景に、弟子たちは大興奮しました。その時です、光輝く雲が彼らを覆い、神様のお言葉が聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞けと。弟子たちはおそれのあまりに地にひれふすことしかできませんでしたが、イエス様は「恐れることはない」というお言葉をかけて、手で触れてくださいました。
 弟子たちが顔を上げると、モーセもエリヤもそこにはいませんでした。メシア(救い主)であるイエス様のお姿だけがあったのです。このことは、旧約聖書の時代にモーセがいただいた律法や、預言者たちの言葉を超え、これからはイエス様のお言葉により頼んで行けばよいのだ、ということを表しています。神様がご自分のひとり子であるイエス様に、わたしたち人間を導くことを託されたのです。
 なんという輝かしい栄光の光景でしょう。その栄光と同時に、イエス様が受ける苦しみ悲しみが近づいています。イエス様はただわたしたち人間の偉大な指導者というだけではありません。ご自身の十字架の死によって、わたしたちの罪を背負ってくださる神のひとり子なのです。(石室優子)

2021年10月15日 (金)

聖書の言葉363

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。           (マタイ16・24)

 イエス様は弟子たちに自分が十字架につけられて殺されてしまうこと、けれどもそれで終わりではなくて、三日後に復活するというお話をしました。このことは本当に起こったことです。ペトロや弟子たちもイエス様がたびたび人から憎まれていたことは知っていました。ですが、それでもまさかイエス様が殺されてしまうなんて、このときの弟子たちには信じられません。これを聞いたペトロさんはイエス様を連れ出して、怒鳴りつけてしまいます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません!」
 そんなペトロに、しかしイエス様は仰います。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」サタンというのはヘブライ語で「邪魔をする者」という意味の言葉です。ペトロはイエス様が神様の求める正しい生き方をして、偉い人と言い争ったりするのは止めて欲しいと思っています。けれども、それはイエス様が生きようとする道、神様の御心に従って生きる生き方を、邪魔することに他なりません。神様のことではなくて、人間のことを思っていることです。それはペトロが神様の思いを無視して、自分の思い通りにイエス様を、神様を動かそうとしたということでもあるのです。
 私たちはつい、私たちの気持ちで、私たちの思い通りに神様を動くことを願ってしまいます。しかしイエス様は仰います。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」私たちにとって大事なのは、神様を自分の思い通りにすること、自分の願い事なんでも叶えてもらうことではありません。神様は人間の思い通りになりません。私たちが、神様の思い通りに生きていくのです。最後には自分の思いを捨てて、神様に従っていくのです。どんなに思い通りにいかなくても、その先に、まだ神様が私たちに望んでいる生き方がある。そこに期待して生きるのが私たちの生き方です。(狩野進之佑)

2021年10月 8日 (金)

聖書の言葉362

あなたはメシア、生ける神の子です。(マタイ16・16)

 私の住むアパートの向かいには小学校があり、ここ最近は連日運動会の練習が行われており、運動会のBGMと児童と先生の声がよく聞こえます。そして、運動会の定番、選手宣誓を練習する声も聞こえてきます。
 宣誓とは、皆の前で口に出して約束することです。選手宣誓なら、これから正々堂々と戦うことを誓うのです。私たちは普段の生活の中で、口に出して誓うことはあるでしょうか。キリスト教では、洗礼式や結婚式などで神様に対して、神様を信じること、互いに愛し合うことを誓います。
 今日の箇所で、イエス様は弟子たちに「あなたがたは私を何者だと言うのか」と尋ね、ペトロが弟子を代表して、イエス様が「メシア、生ける神の子」であると告白しました。告白も誓いに似て、皆の前で口に出して打ち明けることです。イエス様より前の時代、神様の御言葉を人々に伝える預言者はいましたが、ペトロはイエス様が救い主であり、神様の独り子であると告白したのです。イエス様はこの時すでにこの後自分が十字架にかけられることを知っていて、ペトロの信仰告白を聞いて安心されました。自分がいなくなった後もペトロが伝道できるよう必要な力を授け、自分はペトロの信仰告白の実現のために、私たちのために命を懸けられたのです。
 私たちは礼拝で一緒に信仰告白を告白します。神様とイエス様を信じます、と口では語りますが、本当に信じているでしょうか。イエス様は私たちと神様を繋ぐために、私たちの罪を一身に背負い、十字架にかかって復活されました。そんなイエス様に「あなたは私を何者だと言うのか」と問われたら、信仰をもって「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えられるよう、これからも一緒に神様の御言葉に聞きましょう。(原 良介)

2021年9月27日 (月)

聖書の言葉361

イエスはすぐに彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。(マタイ14・27)

 イエス様に促され、船で湖に漕ぎ出した弟子達は、暗闇の中で逆風と波に翻弄され、不安と恐れの中にいました。イエス様は山の上での祈りを終えて明け方近くに湖の上を弟子たちのところに歩いて渡っていらっしゃいました。
 弟子たちは幽霊かと驚き恐れます。イエス様の「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」その力強く温かいみ言葉に安心する弟子たち。イエス様がいて下さればもう大丈夫。どんなに安心したことでしょう。イエス様はいつも私たちの不安と不信仰を取り除いてくださいます。
 ペテロはイエス様を信頼しイエス様が「来なさい。」と命じてくだされば自分も湖の上を歩けると信じました。イエス様に向かって歩き出すペテロ。それでも途中で強い風に恐ろしくなりイエス様から心が離れてしまった時沈みかけてしまいます。「助けてください」とペテロが言うとイエス様はすぐに手を差し伸べて助けてくださいました。信じ切れずにいた弱い心のペテロを嘆きながらも救ってくださいました。
 私たちもペテロと一緒です。不安な事、悲しい事、いろいろなことに出会うたびに心がぐらついてしまいます。私たちの弱さも信仰の薄い者であることもすべてご存じのイエス様です。それでも手を差し伸べ救って下さるイエス様です。共にいて下さるイエス様です。私たちがいつも神様のほうを向いて信仰をもって歩いていけるように祈り、励まし、先頭に立って導き、時には優しく背中を押して一緒に歩いて下さる方がイエス様なのです。イエス様は私たちの救い主。そしてそのイエス様を私たちのもとに送って下さった方が神様です。その大きな愛を、恵みを感謝して祈りつつ過ごしていきましょう。(小嶋幸子)

2021年9月25日 (土)

聖書の言葉360

五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。 (マタイ14・19-20)

 洗礼者ヨハネがヘロデの命令で殺されました。イエスさまとお弟子さんたちも身の危険を感じ、人里離れた場所へと向かいました。すると人々はイエス様についてきたのです。その当時、ユダヤの人々は弾圧されていた(いじめられていた)ので、イエス様なら私たちを救ってくれる、助けてくれると考えたのでしょう。イエス様はついてきた人々を見てかわいそうになり、病人を治したり励ましの言葉をかけてあげました。
 そうこうしている間に夕方になりました。そろそろ夕飯の時間です。イエス様はお弟子さんたちに、「人々に食べ物を与えなさい」というのです。しかし、お弟子さんたちが持っているのは5つのパンと2匹の魚です。数えてみると5千人の人がいるではありませんか。どう考えても足りません。お弟子さんたちは困ってしまいます。しかし、最後にはこの5つのパンと2匹の魚で5千人のお腹はいっぱいになりました。とても信じられないですよね。
 さて、このお話が伝えたいことは一体何なのでしょう?イエス様を信じれば働かなくても空腹にならないということでしょうか。お祈りをしておけば勝手に食べ物が増えるから安心ということでしょうか。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書すべてに記されている、この「パンの奇跡」のお話についてよく考えてみましょう。(諸橋鷹広)

2021年9月18日 (土)

聖書の言葉359

天の国は次のようにたとえられる。(マタイ13・44)

 イエス様はみんなに話をするとき、たとえ話を使ってお話をすることがありました。福音書はイエス様のやったことや、話したことをたくさん集めてまとめたものです。その中にはたとえ話がたくさん出てきます。今日読んだ箇所だけでも3つのたとえ話が出てきます。それだけみんな一度聞いたら忘れられない、印象深いたとえをイエス様がしたということでしょう。
 たとえ話だと、普通に話してもなんだかつまらなく感じることも、ちょっと違って聞こえます。たとえば今日の最初の2つのたとえ話、どちらも言おうとしているのは「天の国を見つけたら、全力でそれを求めよう」ということです。それをたとえ話にしてイエス様は話します。偶然お宝を見つけた人が、手に入れるために持ち物すべて売り払ってしまう。また探し求めていたものを見つけたとき、手に入れるために持ち物すべて売り払ってしまう。聞いているとその様子が思い浮かんでくるようなたとえ話をするのです。神様を求めるとはどういうものか、宝を手に入れようとする人の必死な顔、手に入れた時の幸せそうな顔を思い浮かべれば、わかります。
 3つ目のたとえ話は「神様は良い人と悪い人を見分ける」こと、そして「悪い人は最後には神様が裁いて下さる」ことを教えています。漁師さんは湖に網を仕掛けて、たくさんの魚を捕まえます。きっと朝早くに湖の近くを散歩していると、漁師さんが捕まえた魚を、食べられるものと食べられないものに分けているのを見ることができたでしょう。そして食べられない魚を最後に捨ててしまうのも知っています。神様も同じように、良い人か悪い人かを見分けることができます。食べられない魚が最後には捨てられてしまうように、神様も悪い人を最後には裁かれます。捨てられる魚を見て、最後に神様に捨てられる悪い人の生き方がどんなに悲しいかがわかります。目に見えない神様の世界の様子を、イエス様は目に見えるような言葉にして教えて下さったのです。(狩野進之佑)

2021年9月 9日 (木)

聖書の言葉358

耳のあるものは聞きなさい。マタイ13・9

 当時、人々は麦の種を蒔く時、畑に向かって投げるようにしていました。そのため、道路に飛んで行ったり、石の上に落ちたり、茨などの下に転がったりする種がありました。すると、土がない道路では発芽することなく鳥が来て種を食べてしまいます。石の上に落ちた種は、発芽しても根をはれずに枯れてしまいました。茨の中に落ちた種は途中までは伸びたけれど、茨にひっかかってしおれてしまうのでした。一方で、きちんと畑に落ちた種は根をはって、どんどん伸びて多くの実をつけることができました。「種はきちんと耕された畑にまいて育てましょう」。イエス様は、多くの人にこの当たり前の事実を伝えたかったのでしょうか。
 ここで、種を蒔く人を神様、種は神様からの御言葉、種が落ちる土地は神様の御言葉を聞く人間だと考えます。そうすると、私はギクっとしてしまいます。皆さんはどうでしょうか。神様の御言葉は誰にでも与えられ、今日も教会に自由に来て、それを聞くことができます。それは、御言葉が畑に蒔かれる種のように人々に分け隔てなく伝えられているからです。一方で、聞く私たちはどうでしょう。初めから神様の言葉を聞いていない人もいるでしょう。それではせっかくの御言葉でも、道路に蒔かれた種のようにすぐなくなってしまいます。または、神様ってすごい、私も友達に優しくしたいと考えても、石の上に落ちた種のように、いつの間にか自分勝手に過ごしてしまったり。更には、神様は真理だと分かったつもりでも、結局は希望を持てず、茨に塞がれた種のように神様を信頼して歩めないこともあります。
 それでも、神様の恵みはいつも私たちに御言葉として与えられています。できれば御言葉という種を枯らさずに、良い実を結べるようにしたい。イエス様がこのたとえ話をしたのは、色々な弱さや迷いを抱え、頑な人々に、信仰の在り方を伝えたいと思ったからでしょう。神様やイエス様を信じていない人もいるだろうし、信頼して頑張ろうとしても挫けてしまう人もいるだろう。一人の人の中にも弱さがあるだろう。だからこそ、神様の言葉に耳を傾けて歩んで欲しい。私たちが神様からの御言葉を本当の意味で聞いて、それを自分の中で良い実として結べるように祈りましょう。(原真友子)

2021年9月 1日 (水)

聖書の言葉357

わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。(マタイ12・7)

 コンビニに行きました。お腹がグーグーなり出しました。美味しそうなパンが並んでいます。誰も見ていないから取って食べました。
 みなさんなら、こんなことはしません。ちゃんと買ってから食べます。お金がなければがまんします。世の中にはルールがあります。みなが共に生きていくためにはルールが必要です。
 安息日にイエス様の弟子たちは麦畑を通りました。神様を礼拝するために会堂に行くためです。お腹が空いたので麦の穂を摘んで食べました。その当時のルールでは少しくらい指先で摘まんで食べても泥棒ではありません。みなが共に支えあって生きていくためのルールです。
 ただし、安息日に働いてはいけないというルールがありました。安息日は神様を礼拝するためにあるのです。弟子たちのことを快く思っていなかったファリサイ派の人たちは「しめた!」と思いました。麦の穂を摘むことは安息日にしてはいけない働くことだと理屈をつけたのです。共に生きるためにあるルールが人をやっつけるために使われていいはずがありません。
 イエス様は、ファリサイ派の尊敬するダビデ王のことを持ち出しました。神殿に供えられたパンは祭司しか食べることができません。安息日に祭司は神様を礼拝します。そのために腹ごしらえは必要です。だから祭司は食べることが許されていました。ダビデも家来も神様に仕えています。祭司と同じだから供えられたパンを食べても良いのです。安息日に誰を礼拝するのでしょう。神様と人の子(イエス様)です。弟子たちが腹ごしらえして礼拝するのは、ダビデと家来と同じで許されています。
 ルールの面倒な話になってしまいました。大事なことは何のためのルールかです。互いに愛し合う(憐れむ)ためにどうすべきかです。(岸 俊彦)

聖書の言葉356

従って、神が結び合わせてくださったもの、人は離してはならない。(マルコ10:9)

 律法はユダヤの人々にとって守らなければならない、私たちにとっての法律に相当するものですが、同時に律法は神の御心を示すものでもあります。例えば「殺してはならない」という規定であれ、人道上の問題でもありますが、何よりこれは神様が人間同士の殺し合いを嫌い、悲しまれることを意味していると言って良いかと思います。
 律法の文言の中には離縁を認める記述があります。しかしながら、主イエスは離縁そのものがそもそもあってはならないことと断じました。律法の条項以前に、神の御心がそれを求めていないはずだと、主イエスは教えます。神の御心によって人間は男と女に創造され、二人を引き合わせて一体とする、結婚は人間の判断ではなくて、神の御業なのだから、人間の側の判断でそれを離すことはあってはならないと断ずるのです。
 現実問題として離婚をする必要があるということは、現代の私たちの社会ではもちろん、ユダヤ社会の中でも当然にあったことでした。そのような社会の中にあって、主イエスのこの言葉は理想論に過ぎないと言わざるを得ないのかもしれません。しかし、この理想論に私たちはいつも立ち帰らなければならないでしょう。人間の理想ではなくて、神の理想がここにあるからです。人間は独りで生きるのではなく、二人助け合って生きていくことを願ったのは、他ならぬ神様です。二人を引き合わせて一つとしたのは神様です。そのように結婚があることを、何より神様が願い、祝福して下さいます。(狩野進之佑)

2021年8月20日 (金)

聖書の言葉355

造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方で す。アーメン。(ローマ1:25)

 1:18からロマ書の本論が始まります。まず異邦人の不信心と不義に対する神の怒りが啓示されます。2章からは綿々とユダヤ人の罪が明らかにされ、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」(3:20)と結論づけられます。この箇所は人間の罪を明らかにし、それを裁く神の義が啓示される、いわば夜の箇所です。人は夜を彷徨い死にいたるのです(バルト)。真の神を知らず、信じず、拝み、仕えない人間は「むなしい思いにふけり、心が鈍く暗く」(1:21)なって
罪のトンネルを歩むほかありません。不義の人間を罪に引き渡された義なる神の裁きです。
 その真っ只中で神をほめたたえるのが冒頭に挙げられた聖句です。悪を打ち砕く神だからほめたたえられるのでしょうか。それで溜飲を下げることができるということでしょうか。
 神の怒りのもとにある罪人とは私たちのことです。だとしたら怒りをあらわにする神を私たちは心からほめたたえることができるでしょうか。恐ろしいばかりです。あるいは、神の怒りなど無関心、無関係だということでしょうか。「弁解の余地がない」(1:20)とパウロは突きつけますが。
 この箇所は「福音には神の義が啓示されている」(1:17)と「キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(3:22)の間に挟まれています。この福音に挟まれて神の怒りがあります。福音が神の怒りに貫かれているから神をほめたたえずにはいられないのです。「夜は更け、日は近づいた」(13:12)のです。(岸 俊彦)

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