2023年3月11日 (土)

聖書の言葉426

以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る」
アーメン、主イエスよ、来てください。(黙示録22・20)

 今年度最後に学ぶのは主の祈りの最後「アーメン」です。もとはヘブライ語ですが、国語辞典にも感動詞として載っています。『本当にその通りです』『真実です』や『必ずそうなります』の意味です。お祈りの最後に「アーメン」と言えば、お祈りの内容に対して『本当にその通りです』と言ったことになります。私は近ごろ「コロナや戦争や地震で悲しんでいる人を神様助けてください」と祈りますが、皆さんもきっと「アーメン」と言ってくれるでしょう。主の祈りで「御国をきたらせたまえ」「日用の糧を与えたまえ」と祈りますが、「アーメン」と言ってくれるでしょう。
 しかし、私たちがいくら祈りを合わせても、その通りになるとは限りません。戦争はなくならないし、地震は起こるし、悲しんでいる人もたくさんいます。「アーメン」と言っても無駄なのでしょうか。「アーメン」には『真実』という意味もありますが、本当のことは神様しか知りません。「きゅうこんのなかには」の賛美歌のように、その日その時はただ神様が知っているのです。私たちが知っているのは、神様が『真実』の方、まことの救い主であるイエス様を私たちに与えてくださったこと。そしてイエス様が私たちの罪のために十字架で亡くなり、復活されたことで、神様が私たちとの約束を実現してくださったということです。だからこそ、私たちは御心を行ってくださる神様を信頼して祈り続けるのです。
 誰かがみんなのために祈ってくれたなら、また、イエス様が教えてくださった主の祈りを祈ったなら、心の底から「アーメン」と声を合わせたいと思います。春休みの後、新年度最初の日に、復活のイースターをお祝いできるのを楽しみにしています。(原 良介)

2023年2月27日 (月)

聖書の言葉425

 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。(フィリピ2・9)

 今日の説教題は「まことの神であり、まことの人」です。本当の神様であって、本当の人間であるって誰のことでしょうか。
 それはイエスさまのことです。父なる神の独り子であるイエスさまが2千年以上前にこの世界に来られました。でも、どうしてイエス様は人間として苦労することを選ばれたのでしょうか。「人間の姿で現れへりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と書かれています。つまりイエス様は十字架で死ぬために、人間になって下さったのです。
 マタイによる福音書にイエス様の誕生について書かれています。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と。罪というのは、神様に逆らって生きているということなのです。これでは神さまから見捨てられてしまいます。そんな人間を罪から救う、神さまに赦してもらえるようにするために、イエスさまは十字架で死んで下さいました。それは「従順でした」と書かれているように、父なる神さまのみ心に従った、ということです。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」父なる神さまがイエスさまを復活させ、神様の許へと迎え、そして、最高の名前を与えて下さった、いうことです。「イエス・キリスト」という名は、イエスさまはキリスト(救い主・メシア)である、という意味なのです。
 「まことの神であり、まことの人」であるイエスさまが、私たちを救い主、神さまと一緒に生きることができるようにして下さったのです。このことに感謝し、神様を賛美するために「主の祈り」の最後に「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」と祈るのです。(大友太郎)

2023年2月22日 (水)

聖書の言葉424

 神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(1コリント10・13)

 神様から与えられた恵みによって罪から解放され、自由になった私たちキリスト者には、罪の誘惑があります。日々生活していく上でも感じることでしょう。その誘惑は、悪魔のささやきといった言葉で表現されることがしばしばあります。必要以上に多くのモノを欲しがったり、誰よりも権力を求めたり、誘惑は様々です。そしてその誘惑は、多くの場合は自分の内側からやってきます。私たちはこれから先も、この誘惑あるいは悪魔のささやきからは逃れられないのです。
 イエス様もまた、サタンという悪魔と闘ったことがあります。サタンはイエス様に3つの誘惑をしました。パンの誘惑、権力の誘惑、そして神様と引き離そうとする誘惑、試練です。イエス様は申命記の聖書のみ言葉でサタンに打ち勝ちましたが、もし私たちにこの誘惑や試練が訪れたら、イエス様と同じように打ち勝つことが出来るでしょうか?
 しかし、闘うばかりでなく、時には逃げる勇気も必要です。私たちは毎週、聖書の御言葉を聞いています。試練の道、誘惑の道から逃れ、イエス様と共に歩む道へと積極的に逃げてゆこうではありませんか。私たちが、誘惑と闘う試練の道を歩む時、神様はちゃんと逃げ道を用意してくださいますから。(諸橋鷹広)

2023年2月15日 (水)

聖書の言葉423

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)

 イエス様が十字架刑で苦しむ時、周りの人々はくじ引きゲームをしてイエス様をバカにしていました。それでもイエス様は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈りました。傷付けられても周りの人をゆるし、祈ったのです。
 主の祈りの「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」という箇所について学びます。「私たちが自分にひどいことをする人たちを赦すから、私たちの罪も赦して下さい」という祈りです。私たちは毎週このお祈りをしているわけですが、どうでしょう。友達が待ち合わせに1時間遅れてきたら、怒らずにいられるでしょうか。誕生日を家族が忘れたり、大切な漫画を破かれたりしたら?いじめられている子を助けたのに、かえって、その子にいじめられたりしたら?相手をゆるすことが出来るでしょうか。私は毎週主の祈りを祈っていますが、人をゆるすのが上手ではありません。誰かに傷つけられたら、自分ばかりが可哀想で、相手をゆるせないのです。そのような時、神様のことを忘れてしまっています。腹立たしさでいっぱいで、自分がどうなっているのか、客観的に見られていない。神様を忘れていることにも気付いていなければ、自分がこれまで気づかぬうちに犯してしまった罪の数をもすっかり忘れてしまっているのです。そのこと自体、大きな罪です。
 イエス様は人の弱さを知っておられました。多くの人がYESと言えば間違ったことも正しいことのように変えられてしまう世の中は、二千年前も今も変わりません。自分優先で、その裏で誰かが苦しむ現実は見えなくなる、それが人間です。けれど、その弱い私たちがイエス様に赦されている。愛されています。イエス様、神様が愛し赦して下さっているのだから、もっと強く優しくなって、みんながお互いに赦しあえたら、悲しいことが今よりずっと減るだろうな、と思います。(原真友子)

2023年2月10日 (金)

聖書の言葉422

自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。(マタイ6・25)

 「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」
 これをわかりやすいように言い変えると、私たちが生活に必要のものを今日も与えて下さい。となります。日用の糧とは私たち人間が生きていくのになくてはならないさまざまなものを指しますが、まずは食べ物のことだと考えましょう。
 みなさんも今朝、朝ごはんを食べてきたと思うので今は元気いっぱいでしょう。でも食べ物や飲み物がないと元気に生活できずに、死んでしまいます。
 イエス様は、自分の命のことや体のことについて「思い悩むな」(心配いらないよ)と教えて下さいました。これは健康を無視して大丈夫だよと言う意味ではなく、食べ物や生活のことばかりに気を取られて神様のことを忘れてはいけないよ。神様にちゃんとお祈りをすれば食べ物も生活も与えてくださるから大丈夫!と言うことではないでしょうか。だからこそ与えられたご飯一食一食に感謝のお祈りを捧げなければなりません。
 そして神様に生活に必要なものをお祈りするときは、「今日与えて下さい」とお祈りしなければなりません。明日から先ずっと先までのことを思ってお祈りするのではなく、今日1日を元気に過ごす分だけをお祈りして下さい。神様は私たちに何をどれだけ与えれば良いのか全てわかっていらっしゃるので任せてしまって大丈夫です。
 世界中の人がお腹いっぱい元気に今日1日を過ごすためにもみなさんでお祈りしましょう。
 最後に、イエス様は私たちのためにご自分の命を与えて下さいました。私たちが今日こうして教会へ来れていることはイエス様のおかげなんだと言うことを忘れずに心に留めていましょう。(牧内 歩)

2023年2月 3日 (金)

聖書の言葉421

アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取り除けてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心にかなうことが行われますように。(マルコ14・36)

 ゲッセマネでのイエス様のお祈りのお話です。イエス様は何故神様がご自分をこの世にお遣わしになったかをよくご存じでした。神様のみ心が罪ある人間を救うため、ご自分が十字架にかかって死んで私たち人間の代わりに神様の裁きを受けるため、イエス様のことを信じるすべての人に永遠の命をもたらすために遣わされたということを。それでもその時が迫った時、イエス様はとても苦しまれました。汗が血が滴るくらいに苦しみながらお祈りされました。捕らえられ、辱めの裁判を受け、十字架にかかる事、神様の怒りを受け見捨てられ死ぬことの恐ろしさ。神様の裁きとしての死はどんなに恐ろしく、悲しく、苦しかったことでしょう。神様にどうかそうしないで助けて下さいと身を絞るように祈ってお願いされました。弟子たちにもその苦しみを隠しませんでした。それでも最後には神様を信頼し、神様に従い、神様のみ心がなるようにと祈りました。そして私たち人間の救いのために十字架で亡くなりました。イエス様の苦しみを前にしても眠ってしまうペテロ達の弱さも嘆きながらも許して下さいました。愛をもって苦しみに打ち勝ったのです。神様はイエス様を復活させて下さいました。み心がなりました。
 イエス様はいつも私たちを見守り、共にいて励まし下さいます。最高最強の味方です。だから私たちはイエス様のみ名を通して祈るのです。この地上には苦しみ、悲しみ、悩み、憎しみ、戦争、暗闇におおわれているとすら思ってしまうことも起こります。それは私たち人間が神様のみ心を忘れて自分の心にあることを優先させてしまうからです。だから私たちは主の祈りを祈ります。イエス様のように神様を信頼し、この地でも神様のみ心がなりますようにと祈るのです。そこに神様の救いがあるからです。(小嶋幸子)

2023年1月27日 (金)

聖書の言葉420

時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1・15)


 本日私たちが学ぶのは、主の祈りの『御国をきたらせたまえ』についてです。
 御国、それは神様の国という意味です。神様の国、これは神様が守られている世界、神様の御心が及んでいる世界、のことです。御国は上空何万メートルにあるとか、面積はどのくらいとか、人口が何億人とか言えるものではありません。
 2023年前イエス様がこの世に与えられたことで、人間にもよくわかる形で、神様の国が始まったのではないでしょうか。イエス様の存在がなければ、イエス様の言葉がなければ、私たち人間は神様の存在を正しく知ることができなかったはずです。
 では2000年以上も前に既に始まっていたこの神の国。私たちのもとに、すでに来ているこの神の国。それなのに何故、『御国をきたらせたまえ』つまり御国がきますように、と祈っているのでしょうか。なぜ『すでに』来ている神の国に、これから来て欲しいと祈っているのでしょうか?
 イエス様は、神の国は近づいているけれど、まだ完成していない、とおっしゃいました。この世界は、悲惨な戦争が絶えず、人が人をあざむき、神の国が完成していると喜び合うには程遠いです。聖書は、いつも目を覚まして、緊張感を持って、神の国が完成する時を待ち望むように、と私たちに伝えています。やはり緊張して、悪い力に負けないようにしていないと、人間は欲におぼれて悪いことをしてしまい、世界は悪い方向へと進んでしまうでしょう。もう神の国が始まっていることに安心する。それと同時に、緊張しつつ神の国が完成するのを希望を持って待つことが大事なのです。(石室裕一)

2023年1月20日 (金)

聖書の言葉419

あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。(1ペトロ2・2)

 3学期は「主の祈り」を学んでいます。2学期に学んだ「十戒」と同じように「主の祈り」も、前半は神様について、後半は人間についての祈りです。今日は前半の一つ目「御名をあがめさせたまえ」を学びましょう。
 「御名」とは神様のお名前、「あがめる」とはこの上ないものとして敬うことです。つまり、神様のお名前がほかの何よりも特別で大切なものとさせてください、となるでしょうか。皆さんは神様を信じる人なら、神様を大切にできると思うでしょう。しかし、神様が私たちを大切にしてくださるように、私たちは神様を大切にできません。つい自分ばかりを大切にしてしまいます。だから忘れないように主の祈りで最初に祈るのです。
 では、神様を信じない人はどうしたら神様を大切にしようと思えるでしょうか。きっかけは人それぞれですが、私たちがいつも神様に祈り、礼拝を捧げる姿を見て、神様を信じるようになる人もいます。それはキリスト者としての行いや信仰のうちに神様の姿を見るからです。しかし難しいことに、神様を信じる人の行いがよくないと、キリスト教を軽蔑する人も出てきます。聖書にも神様のお名前を汚す人が度々登場し、そのことで神様を離れてしまった人もいるのです。だから、私たちが信仰の道を正しく歩み、神様をまだ知らない人々が神様と出合い、ともに神様を信じる歩みに導かれるよう、「御名をあがめさせたまえ」と祈るのです。イエス様も「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである(マタイ5:16)」と語っておられます。
 自分が神様をほかの何よりも大切にできるように、そして神様をまだ知らない人々のために、今日も「主の祈り」を祈りましょう。(原 良介)

2023年1月11日 (水)

聖書の言葉418

天におられるわたしたちの父よ。(マタイ6・9)

 私たちは「天にまします我らの父よ」と主の祈りを祈る時神様に呼びかけます。神の子イエス様が、私たちの罪のため十字架にかかって天に上げられたことで、私たちの罪が赦され、私たちも天の神様の子供として神様を「お父さん」と呼ぶことができるのです。
 世界の言葉で「お父さん」を調べてみました。
 ダッド、アッパ、ペー、パードゥル、フーチ、ファータ‥‥。
 今ここにいる私たちと同じように世界中の人々が神様に「お父さん…」と呼びかけているのです。なんて暖かな言葉でしょう。なんて優しく暖かな言葉で始まる祈りでしょう。世界中の人々が、大人も子供も、みな兄弟姉妹ということにも改めて気付かされます。そして主の祈りは、自分自身から出る素直なお祈りのために必要な祈りの始まりです。「祈りましょう」と言われて素直に恥ずかしがらずに、祈ることが出来るでしょうか。
 私は高校生の時、教会に通うようになりました。17歳の私は人前で「祈る」ことができませんでした。人の目を気にせず祈る事ができなかったのです。こんなことを言って変に思われないだろうか、祈りの順番を間違えてないだろうか。祈る順番が回ってくると心の中では「パス!」と叫んでいたのです。祈りが人に聞かせるものだったからです。
 でも主の祈りは教えてくれました。「祈り」は神様に献げるものだということを。自分本位にならないように、くどくどと祈らないように弱い私たちに与えてくださった「主の祈り」。祈る言葉が見つからない時、独りよがりなお祈りになりそうな時、主の祈りで「お父さん」と呼びかけてみてください。きっとそこに父なる神様はいて、耳を傾けてくださっています。(牧内美和)

2023年1月 4日 (水)

聖書の言葉417

わたしたちにも祈りを教えてください。(ルカ11・1)

 中学1年生の元旦、静岡市の浅間神社に家族で初詣に行きました。境内に上がってお祓いして貰いました。その間心の中でお願いごとをしました。でも、どうお願いしたらよいのか、誰にお願いしているのかもわからないまま「~~してください」と心の中で繰り返しました。
 高校2年のクリスマス、三鷹市の相愛教会に友達に誘われて初めて教会に行きました。教会では「神様、~~。イエス様の御名によって祈ります、アーメン」と祈ることを教えられました。でも自分で中々祈ることはできませんでした。
 礼拝に出席すると「主の祈り」を皆で祈ることを知りました。おまじないのようで、ともかく覚えて皆と一緒に祈るようになりました。そのうち、イエス様が弟子たちに教えてくださった祈りであることを知りました。イエス様と私たちと天のお父様をつなぐ祈りであることが少しずつ分かるようになりました。どんな時でも「主の祈り」を祈ったらよいことも教えられました。自分の言葉で祈ることができないときも、「主の祈り」を祈ればよいのだと分かるようになりました。
 一人でも祈りますが、皆と「主の祈り」を祈ると、ホッとすることもあるし、力が湧くこともあります。「主の祈り」さえ祈れなかったり、言葉が分からなくなっても、皆が祈る「主の祈り」を聞いていると引っ張られるというか、助けられるというか、「主の祈り」が私たちを1つにしてくれることも経験してきました。
 2000年以上「主の祈り」は祈り続けられています。その輪に加わることができるのはありがたいことです。イエス様は弟子たちを通じて、私たちによい贈り物をしてくださいました。(岸 俊彦)

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