2024年3月 4日 (月)

聖書の言葉471

「マリア」と言われると、彼女は振り向いて…(ヨハネ20・16)

 マグダラのマリアは、イエス様のお墓の前で泣いていました。愛し慕うイエス様が亡くなってしまった。さらに、お墓にあるはずのイエス様の遺体がどこかへ行ってしまった。深く悲しみの中で泣いていました。
 すると、2人の天使が現れ、「なぜ泣いているのか」と尋ねました。この「なぜ泣くのか」という問いかけは、泣いている理由を尋ねているわけではありません。喜びの出来事が起こり、あなたが泣く理由はもうなくなった、それなのになぜ泣いているのかと尋ねたのです。しかし、マリアはそれでも泣くのをやめません。イエス様を深く愛しているから。たしかにそれはそうですが、もっと言えば、過去のイエス様にすがっているからです。だから、イエス様の遺体を探し求めているのです。しかし、それでは心の向きがいつまでも墓の中に向いたままです。
 しかし、イエス様に「マリア」と名前を呼ばれたことで、マリアの心の向きが変わりました。復活されたイエス様と共に歩もうとする信仰に変えられました。つまり、この箇所はマリアの悔い改めを見ているのです。

 私たちはそれぞれに色々な悩み苦しみを抱えています。その中で私たちは、日々の思い悩みに心奪われ、心の向きまでも、そちらに向いてしまいます。
 しかし、イエス様が私たち一人一人の名前を呼んでくださることで、私たちの心の向きが、死から復活されたイエス様に向くのです。
 2024年度新学期はイースターから始まります。新しい歩みを迎えるとき、私たちは、心の向きをどこに向けるべきでしょうか?(諸橋鷹広)

2024年3月 2日 (土)

聖書の言葉470

「まことに、この人は神の子だった」(マルコ15・39)

 今私たちは受難節という時を過ごしています。イエス様の十字架の苦しみを覚えて過ごす時です。イエス様は何も悪いことをしていないのに、なぜ殺されなくてはならなかったのでしょうか。
 イエス様の教えに人々の心は震えました。それまで皆んなに尊敬されていた偉い人々は、イエス様がゆるせませんでした。イエス様を殺してしまおうと思いました。しかしイエス様は、ご自分を殺そうとする人々さえも赦されました。人間みんなの罪を背負って十字架の上で死ぬという道を歩まれました。
 処刑を実行する責任者は百人隊長という人でした。百人隊長は処刑の職務を日ごろから担っていました。しかし、イエス様の処刑はこれまでの処刑とはあまりにも違うものでした。
 朝の9時にイエス様は十字架につけられました。昼の12時には世界が真っ暗になりました。イエス様は「エロイエロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれて息を引き取られました。すると神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。昼の3時のことでした。十字架の下で、イエス様の死の全てを見届けた百人隊長は、「まことに、この人は神の子だった」と言いました。
 イエス様の最も悲惨な一日を彼は見届けました。輝いて力に満ちた素敵な姿ではありません。愛する弟子たちに裏切られ、慕われていた民衆に見捨てられ、理不尽な恨みに殺されるまでに打ちのめされ、鞭打たれ、手足に釘を打ち込まれた悲惨なお姿を見て、百人隊長はイエス様を『神の子』であると言ったのです。百人隊長は十字架の前に確かに立ったのです。(石室裕一)

2024年2月24日 (土)

聖書の言葉469

試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。
(1コリント10・13)

 この聖書の御言葉は、聖書の中でもとても有名な御言葉です。これはパウロさんが語った言葉です。13節を読むと、2つ神さまが私たちに贈り物を与えてくれていることが分かります。何と何が与えられていると思いますか。それは、試練と逃れる道です。この2つが僕にも、ここにいるみんなにも神さまがによって与えられています。
 みんなは今試練が与えられていると聞いて、何が思い浮かぶでしょうか。例えば学校での勉強だとか、習い事、家事のお手伝い、恋愛、色々あると思います。実は、ここにいる大人達はみんな神さまから試練を与えられて乗り越えてきている、つまり逃れる道を辿ってきている大人達なんです。
 みんなはいま試練と向き合えているでしょうか。みんなまたそろそろ次の学年に上がると思います。勉強が大変で中々お母さんやお父さんからやれと言われてもやる気が起きない、そんな時もあると思います。そんな時に少しでも神さまの声に、パウロさんの届けたい想いに目を留めてみましょう。
 この御言葉は結論からいうと、逃れる道というのは神さまのもとへ立ち返ることです。神さまのなさろうとしていること、私達にこうあってほしいと考えていることを、今1度思い起こすことです。昔のユダヤ人はとてもこの神さまの作られた律法というものを大切にしてきました。律法というのは神さまによるルールや命令、人間にこうあって欲しいと考えて作られているもので、これは本当に大切なことです。モーセの十戒も大事な律法と呼ばれるものです。けれどそんな律法よりもっと大切なことがあります。それは神さまから与えられている信仰です。私は神さまを信じます。あなたこそ私の救い主です、と心で信じることです。信じる信仰が神さまに立ち返るということで、また逃れる道でもあります。いま私たちが献げている礼拝も逃れる道ともいえます。どんなに辛い日がやってきても神さまに目を向けて喜んで賛美して、今日から始まる1週間も主と共に歩んでいきましょう。(文 弘元)

2024年2月15日 (木)

聖書の言葉468

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」ルカ23・34

 イエス様は弟子のユダに裏切られイユダヤ教の祭司長や学者に捕まえられ、裁判にかけられました。イエス様はユダヤ教を批判したりローマ帝国に逆らったとして重い罪を着せられて、十字架につけられ死刑にされることになりました。十字架刑になる重罪人は十字架を担いで処刑場まで歩かねばなりませんが、イエス様は一晩中ムチうたれて血を流し、もう十字架を担ぐ力は残っていません。ノロノロと歩くイエス様にイライラしたローマ兵は、たまたま畑から帰ってくる途中だったキレネ人シモンを捕まえて、イエス様の代わりに十字架を担ぐよう命じました。シモンは大勢の人の前で無理やり重い十字架を担がされて、「なんで自分が犯罪者と同じ苦しい目にあうんだ」と辛く恥ずかしく、イエス様を憎く思ったでしょう。シモンは仕方なくゴルゴダの丘まで十字架を背負いました。そしてイエス様が十字架につけられて無残にローマ兵に殺されるところを見ました。
 マルコによる福音書15:21ではシモンは「アレクサンドロとルフォスの父」とあり、この二人はキリスト教の信者です。シモンは十字架につけられたイエス様の姿を見て「イエス様は何も悪いことをしていないのに私たちの罪を背負って十字架につけられたのだ」と気づいたのでしょう。やがてシモンはイエス様の教えを信じるようになり、息子たちにイエス様の教えを伝えたのでしょう。
 イエス様は私たちの罪を背負って死んでくださり、死からよみがえって天に上りました。いつも私たちのことを見守り、どんな時でも共に歩んでくださる方なのです。(酒井由紀子)

2024年2月10日 (土)

聖書の言葉467

家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。(マタイ21・42)

 ある人がぶどうを沢山植えました。ただ、この人は旅に出ることになったので、ぶどうを育てるのは農夫たちにお任せしました。収穫の時期になったら、ぶどうの実をもらいに来るからね、と伝えて、この人、つまりオーナーは出掛けていきました。
 いよいよ、秋になりぶどうの実が食べられる頃になりました。オーナーは旅先から、使いの人を出して、ぶどうを取ってきてもらおうとしました。ところがどうでしょう。農夫たちはオーナーの使いを追い返してしまいました。ただ追い返したのではありません。殴る蹴る、とお使いの人にひどいことをして追い返しました。
 オーナーはまた次の人を使いに出しました。農夫たちは次の人も同じように殴る蹴るをして、何も持たさずに追い返しました。オーナーは更に3人目の使いも出しましたが、これも農夫たちはケガをさせるぐらい傷つけて、農園の外に出しました。
 困ったオーナーは、自分の息子を農園に送り出しました。ところが、農夫たちはオーナーの息子を農園の外に出して殺してしまいました。
 さて、オーナーはこの後どうしたでしょうか。イエス様はこの話を聞いていた人たちに問いかけたあと、こう言いました。農園に戻ってきて、この農夫たちを殺して、他の人にこの農園を与えるだろうと。
 この話を聞いていた人たちは、そんなことはあってはなりません。と言いましたが、イエス様は続けて言われました。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』その足の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その足石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
 オーナーは神様、ぶどう園は神様が造られたこの世界、農夫は祭司長たち、使いの人は預言者、息子はイエス様です。神様は私たちのために、イエス様をこの世に送ってくださいました。イエス様は神様に見捨てられたものとして私たちのために殺されました。でも、すべては神様のご計画の内にあり、イエス様は復活し、天に上げられ、大事な親石となってくださいました。(原 知子)

2024年2月 3日 (土)

聖書の言葉466

あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに同じようになさるであろう。(マタイ18・35)

 私たちは、自分に対して罪や過ちを犯した人を赦すことができますか。今日の聖書箇所でペトロがイエス様に「人を何回まで赦すべきか、7回までか」と質問されたのに対し、イエス様は「7回どころか7の70倍まで赦しなさい」と答えられました。「7の70倍」とは490回ではなく、無制限を意味します。イエス様は何回でも赦しなさいと語ります。
 加えて、イエス様はたとえ話を語ります。主人に対して一生働いても返せないような大きな借金のある家来が、主人の憐れみにより赦され、借金を帳消しにしてもらいました。しかし、その家来は自分が100日分の賃金くらいのお金を貸している仲間は赦せずに牢に入れたため、主人は怒ってその家来を罰しました。ここで出てくる主人が神様、家来が私たちです。イエス様は「心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに同じようになさるであろう」、つまり私が誰かを赦せないでいると、そのような私たちを神様もお赦しにならない、ということです。
 でも、神様はなぜ私たちを赦してくださるのでしょうか。それは私たちのことを心から愛しておられるからです。神様は信仰の道から外れた罪ある人がいても、自分を信じる者になるよう祈り願い、信仰が戻ったなら手放しに喜ばれる方です。私たちはどうでしょうか。私たちは自分が愛されることを望みながら、人を愛すことができないのと同じように、自分が赦されることを願いながら、人を赦すことができないものです。誰かを赦すのは誰にとってもすごく難しいことです。大切なのは、神様が私たちを赦してくださっている恵みに気づき、自分も人を赦して愛していこうと祈り求める歩みそのものではないでしょうか。(原 良介)

2024年1月27日 (土)

聖書の言葉465

一人の罪人が悔い改めるなら、神の天使たちの間に喜びがある。(ルカ15・10)

イエス様が大勢の人たちを呼んで一緒に食事をしているところです。その人たちはファリサイ派の人たちや律法学者の人たちに罪人と呼ばれる人たちでした。罪人とは単に品性が悪い人たちのことではなく、律法に反する生き方をしたために追放されてしまった人たちのことです。ファリサイ派や律法学者の人たちは罪人たちと一緒に食事をしているイエス様のことを見て文句を言いました。そこでイエス様は彼らを見て二つの譬え話をしてくださいました。
 一つ目の例え話は、百匹の羊を飼っている羊飼いが一匹でもいなくなってしまったらいなくなった羊を一生懸命探し出して、見つけたらきっと何よりも喜ぶでしょう。という話をしました。
 二つ目の例え話は、銀貨を10枚持っている女性が1枚の銀貨を落としたならその1枚を大掃除してまでも探し出して見つけたら近所や友人を巻き込んで喜ぶでしょう。という二つの譬え話です。この話で出てくる羊と銀貨は、神様を信じていない人や、神様を信じているのに裏切ってしまったことのある人のことです。神様はそれらの人間たちのこともとても愛して自分のもとに帰ってきてほしい。とそう望んでいるのです。
 神様はきっと私たち人間の心の中を全て知っていて、神様をまだ信じていない人も、一度神様を裏切ってしまった人のことも、ご自分を信じてくれるのを待っていてくれます。そして、なかなか神様の教えにそって歩けない私たち人間が悔い改めて神様を信じると、それを何よりも喜んでくださるのです。(牧内 歩)

2024年1月18日 (木)

聖書の言葉464

あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい。(ルカ10・27)


 律法の専門家は、難しいことを聞いてイエス様を困らせようと、「永遠の命を得るためには何をすればいいですか?」という質問をしました。それに対してイエス様から「あなたはどう思うか?」と聞かれ、「主を愛すること、隣人を愛すること」と答えましたが、すぐに「正しい答えだ。それを実行しなさい」と言われてしまいます。「では、私の隣人とは誰ですか?」と、開き直って聞くこの人にイエス様はある譬え話をされました。
 ある人が、エルサレムからエリコに下っていく途中の道のりで強盗に襲われた。殴られて、死にかかっていたその人のそばを、最初に下ってきたのは祭司。でも倒れているその人を見ると、反対側を通って行ってしまった。次にやって来たレビ人も同じように、見て見ぬ振りをして、道の向こう側を通って去って行った。ところが旅をしていたあるサマリア人は倒れているその人を見ると可哀想に思って傷口を手当てして、包帯をした。それだけはなく自分が乗っていたロバに乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
 話し終わるとイエス様は、「あなたは、この3人の中で、誰がこの襲われた人の隣人になったと思うか?」と尋ね、律法学者は「傷ついた人を助けた人です」と答えました。その答えを聞いてイエス様は、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。ユダヤ人の軽蔑していたサマリア人が隣人になったと聞いて、この律法の専門家はドキッとしました。隣人を愛していなくても、神を愛しているから大丈夫だと思っていても、それは間違いだよ、とイエス様が指摘したからです。「隣人を愛する」とは、このサマリア人のように「隣人になる」こと。そして「隣人とは誰か」と探すことではなく「隣人になる」ことです。(沢田寛子)

 

2024年1月 9日 (火)

聖書の言葉463

種は神の言葉である。(ルカ8・11)

 種を蒔く人が種まきに出てゆきました。道端に落ちた種は、人々に踏みつけられ、鳥に食べられてしまいました。石の多い土地に落ちた種は、芽は出ましたが、十分な水がなく枯れてしまいました。また、別の種は茨に塞がれ、陽が当たらずやはり枯れてしまいました。見事、実を実らせたのは良い土地に落ちた種です。これは、イエス様が大勢の群衆とお弟子さんたちに語られたたとえ話です。信仰のありかた、またそれによって神の国の秘密を悟ることができるかどうかを、当時の人々にとって身近であった種まきをたとえに用いて話されたのです。その他大勢の群衆にも、お弟子さんたちにも、このお話は平等に語られます。しかし、それによって「ふぅ~ん、そうなんだぁ…」と終わってしまったり、「はいわかりました」で終わってしまうのが多くの人々です。イエス様のお話を聞いて、よく考えたり、素直に聞き入れないと、たとえ話が持つ本当に大切なことは見えてきません。
 私たちは、この「種まきのたとえ」を聞くと、どこか種が蒔かれた「土地」の方に気が向いてしまいます。自分は道端なのかなぁ、茨の多い土地なのかなぁ、良い土地になれるのかなぁ。しかし私たちが見つめなければならないのは、「種を蒔く人」です。「種」とは御言葉です。「蒔く人」とはイエス様です。イエス様が蒔かれた種から信仰が生まれます。決して私たちの努力だとか、日ごろの行いによって立派な実を実らせるわけではないのです。外から蒔かれた種、つまり御言葉によって私たちの内に信仰が生まれます。私たちが生活する中で、日々の歩みの中で、イエス様が御言葉をくださる、罪深い私たちに、それでもなお忍耐強く御言葉を語り続けてくださる。その御言葉をしっかり聞く心、すなわち「善い心」を持って、今日蒔かれる種に感謝して歩みだしましょう。(諸橋鷹広)

2024年1月 6日 (土)

聖書の言葉462

父親のもとに行った。(ルカ15・20)

 母さんが亡くなってから、父さんは兄さんと僕のことを気にかけすぎる。兄さんは父さんを一生懸命手伝っている。僕は父さんとも兄さんとも違う人間だ。この家を出て自由に生きたい。自分に何ができるか挑戦したい。兄さんと僕には、父さんからそれぞれ貰うことができるお金がある。それを貰って、ともかく、知らない町に行って、自分を試してみよう。
 ところが、世の中は悪い人間ばかり。お金をもっているとわかると言い寄ってきてだまされたり、調子にのって無駄遣いして、あっというまにすっからかん。悪いことは続くもの。飢饉が起こって、食べる物さえなくなった。仕方がないから豚の世話をすることにした。豚のえさであるいなご豆でも食べたいと思うほどお腹か空いた。
 そうすると気付いた。父さんの所では何人もの人たちが働いて、パンもたくさんある。僕がまちがっていた。父さんの子としてくださった神様にも、何不自由なく暮らすことができるようにしてくれた父さんにも謝ろう。息子ではなく、働いている人たちと一緒になって、もういちどやり直そう。
 遠くの方から父さんが駆け寄ってきた。僕を抱きしめた。僕が謝ろうとしたら、「死んでいた息子が生き返った。帰って来た」と父さんは大喜び。ボロボロの服を綺麗な新しい服に着替えさせてくれ、ご馳走まで用意してくれた。
 どうして、父さんが僕のことをこんなに大切にしてくれていて、いつも心配してくれたと、今まで気付かなかったのだろう。失敗しても帰るところがあるから、無茶もできたのだ。自分一人で自由に生きることができるのではない。父さんに支えられて、冒険もできるのだ。なんて僕は身勝手で愚かだったのだろう。(岸 俊彦)

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