2024年6月15日 (土)

聖書の言葉482

「主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒やされます」(マタイ8・8)

 “信仰者の鑑”と呼ぶに値する信仰をもった人を誰か思いつくでしょうか。カトリックではそのような人を「聖人」と呼ぶようです。私がすぐに思いついたのは、マザーテレサでしょうか。
 今日の聖書箇所には、イエス様が驚かれるほど素晴らしい信仰をもった百人隊長が登場します。百人隊長とはローマ帝国のために働く軍人で、多くの兵隊をまとめる立場にある人です。その百人隊長の子どもが麻痺を起こして苦しんでいるので、イエス様に助けを求めました。イエス様はその求めに応じて、子どものいる場所に向かおうとしますが、百人隊長はそれを断ります。自分はイエス様をお迎えするに相応しい者ではない、つまり罪人であると彼は告白したのです。私が同じ立場なら、お礼もそこそこにイエス様の手を引いて自宅に急かしたことでしょう。しかし、百人隊長はイエス様の申し出を断った上で、「ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒されます」と言いました。イエス様の行った奇跡は人々に広まっていたでしょうが、この目でイエス様が癒してくれる様子を見届けないと、本当に子どもの麻痺が治るのか不安に思うはずです。しかし、この百人隊長はイエス様に全幅の信頼を置いており、イエス様のお言葉だけで十分であると確信していました。私たちはつい目に見えるものばかりに捕らわれてしまいます。しかし「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎ」、イエス様を信頼する強い信仰をもちたいです。
 私たちがこの地上での歩みを終えて、天国でイエス様と対面できるとき、「あなたの信仰には驚きました。よく頑張りましたね」と言っていただけたなら、どんなに嬉しいでしょうか。(原 良介)

2024年6月 4日 (火)

聖書の言葉481

「求めなさい…。探しなさい…。叩きなさい…」(マタイ7・7)


   イエス様は「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。」と教えられました。
   ここで、2つの疑問が生まれます。1つ目は、どうやって神様に自分の求めるものをお願いするのか、ということです。2つ目は、求めたとして、本当にそれが与えられるのか、ということです。
   1つ目の答えは、神様にお祈りするのです。「何事も思い煩っては、なりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。」とフィリピの信徒への手紙4:6でパウロが語っている通りです。
   では、2つ目の疑問に対してはどうでしょうか。求めたとして本当にそれが与えられるのでしょうか。神様に求めていること、例えば「あんまり勉強していないけど、テストでなんとかなりますように」と祈ったことがある人がいるかもしれません。その求めは聞き入れられたでしょうか。
実は、求めて与えられるものは私たちの欲望や願望を満たすものではなく、神様が私たちに本当に必要だと思うもの、ということなのです。私たちには見えていないけれど、神様は何もかもご存知だからです。私に本当に必要なものを与えてください、あなたが良いものを与えてくださると信じるからです、と祈り、願い、求め、探し続け、叩き続けなさいと、イエス様は教えてくださっています。
   だから、自分では答えが出せない、どうしようもない時にこそ、主に祈ってください。あなたを大切に思っているからこそ、神様は必要なものを備えてくださいます。欠けの多い私たちを愛してくださり、この世界に独り子であるイエス様を与えてくださったほどなのです。どんな時も主の御心を求めて、探し続けて、叩き続けましょう。そして、主が与えてくださった恵みに気づいた時、それを周りの人に分け与えられる人になれますようにと祈ります。(原 知子)

2024年5月30日 (木)

聖書の言葉480

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ6・33)

 イエスさまは、山上の説教で「思い悩むな」と言われました。「思い悩む」を別の言い方をすれば、「心配」ということができるかもしれません。私たちには、たくさんの心配なことがあると言えます。「気になること」と言ってもいいです。そのようなことは時々、とてつもなく大きなって、私たちの心と身体を支配してしまうことがあります。そして、その悩み事や心配事がどんどん大きくなっていくと、病気になってしまうことさえあります。
 イエスさまは、そのような私たちに「思い悩むな」「心配するな」と言われます。これは命令です。思い悩まなくていいよとか、心配しなくてもいいよではなくて「思い悩むな」と言われます。命令というと、ちょっと驚きます。厳しいとも思えます。けれども、思い悩むことは、実のところ、主なる神さまから離れていくことです。主なる神さまに背を向けて、自分を中心とする闇の中に落ちていくことになってしまいます。イエスさまは、そこから私たちを何とか救おうとされるのです。
 この命令には、理由があります。そして、思い悩む代わりに私たちが、本当にすべきことまで語られています。それが「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」ということです。神の国とは、神さまの支配です。神の国とは、神さまの正しさです。私たちは、どちらが正しいか、何が正しいかと悩みます。自分で自分の思い通りにしようとして、上手くいかずに苦しんだり、悲しんだりもします。そうではなくて、何よりもまず主なる神さまに信頼して、ゆだねること「から」始めるのです。それこそ、思い悩みと心配から自由にされる第一歩です。(上野峻一)

2024年5月22日 (水)

聖書の言葉479

「だから、こう祈りなさい。天におられる私たちの父よ…」(マタイ6・9)


 私たちはどこでどんな場所で祈ることが多いでしょう。教会に来ているときは礼拝でお祈りします。ここでは司式の人のお祈りを「聞いて」「祈る」ことが多いと思います。その祈りは自分が神様に捧げる祈りになっているでしょうか。
 私は高校生の時初めて教会にきて、初めて人前でお祈りすることになった時、恥ずかしくて祈ることなんて出来ない、と思いました。他人が自分のお祈りを聞いてどう思うだろう、と考えただけでお祈りをすることに抵抗を感じました。だから、祈れない時は「主の祈り」を祈れば良いのだよ、と教えてもらった時はすごくホッとしました。「主の祈り」には必要なことが全て書かれていました。自分の頭で考えてくどくど祈って、挙句恥ずかしいと思うことになるなら「主の祈り」を祈れば良いのです! こんなに心が軽くなることはありませんでした。
 それからはお祈りの時間が苦ではありませんでした。子どもの頃は食前の祈りも讃美歌も、嬉しくて大きな声で「アーメーン」と言っていました。でも成長して大きくなったら心が重くなって、素直に神様に向かうことができなくなっていたのです。小さな頃には出来なくても大きくなったら出来ることが多くなるはずなのに、不思議ですよね。
 祈る言葉が見つからない時、困ったときは「主の祈り」です。先ほども言いましたが、そこには必要なことが全て書かれています。そして「天にまします、我らの父よ」私たちはこの祈りで繋がっています。一人じゃないのです。神様と私たちは一人一人皆つながっている祈りです。他の人のお祈りも、自分のお祈りとして一緒に神様に捧げるお祈りとして祈ることが出来たら嬉しく心軽やかになれますね。そして今朝も献金の後の主の祈りを祈る時、心を込めて神様にお祈りできますように。
 アーメン。(牧内美和)

2024年5月18日 (土)

聖書の言葉478

主の名を呼び求める者は皆、救われる。(使徒2・21)

 聖霊降臨日は、聖霊が私たちに、その姿を現されたことをお祝いする日です。キリスト教の神さまというのは、父なる神、子なる神、聖霊なる神とされています。旧約聖書の創世記で人と世を創られたのが父なる神。約2000年前に私たちの罪のために十字架にかかってくださったのが子なる神。そして、イエス様の弟子たちが集まってお祈りをしていた時に姿を現したのが聖霊なる神です。。
「聖霊が降る」と、弟子たちが聖霊に満たされました。大勢の人がだれもかれも、自分の故郷の言葉で話されているのを聞いたのです。炎のような舌が分かれて一人ひとりの上に留まってなにか怖いことが起きそうな感じがして不安な気もしますけど、これは素晴らしい神様からのプレゼントだったのです。神さまの力によって、「他の国々の言葉で話す」といったことは人間の限界と罪が乗り越えられて、福音と伝道の豊かさを表すということです。
 聖霊が目にみえる業をしたということではありません。私たちのうちに聖霊の神さまが住んでくださって、私たちを生かし、導いていてくれる存在であること。目には見えていなくても確かな働きかけで私たちを日々の学校、教会学校に呼び集めてくださっているいきる源であるということを覚えておきたいものですね。
 預言者ヨエルを通して言われた言葉をみなさんで読みしましょう。
 使徒言行録2章21節「主の名を呼び求める者は皆、救われる」。
 私たちが洗礼によって救われて神さまに属する存在となれば、聖霊が永遠に私たちの心に住み、神さまの子どもらしく歩んでいける人生にすでになっていることを覚えて、共に今日からの1週間も歩んでいきましょう。(文弘元)

2024年4月29日 (月)

聖書の言葉477

心の貧しい人々は、幸いである。(マタイ5・3)

 イエス様が、弟子と多くの民を率いて山の上で語り始めた最初の教えは、
 「心の貧しい人々は幸いである
 天の国はその人たちのものである」
でした。これはとても強い宣言であり、同時に祝福の言葉です。イエス様についてきた人々に向けて、あなた方は幸いだと呼びかけられました。 「心の貧しい人」とは一体どのような人なのでしょう? 心の狭い人でしょうか? 気持ちに余裕がない人? 親切ではない人? どれも違います。心の貧しい人というのは、霊において貧しい人ということです。もっと言えば「神様のみ前で、貧しさの中に生きる人」のことを言います。自分は多くを持っていない、だから差し出すことも出来ない無一文の状態だ、だから神様のみ前において、ただ受け取ることしか出来ない人間を「心の貧しい人」と捉えてよいでしょう。
 イエス様の元に集まった人々は、そのような者が多くいたでしょう。日々の生活に追われている、税金の支払いに悩んでいる、将来に不安がある。だからこそ神様、そしてイエス様に依り頼もうとしています。自分の力に依り頼むのではなく、神様に依り頼むのです。そのような人々は幸いであるとイエス様は語られました。自分は何も持っていない、何も差し出せない。だから「あなたを頼らせてください」「あなたの御手から受け取る人間とさせてください」。そう祈る人が祝福され、幸いであります。
 私たちは心の貧しい者です。しかし、主の恵みによって幸いとされます。その恵みに感謝しましょう。(諸橋鷹広)

2024年4月26日 (金)

聖書の言葉476

「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ4・17)

 イエスさまが荒れ野でサタンの誘惑に勝たれた後、ガリラヤに行き、そこから人々に神様のことを伝え始められました。この場所は旧約聖書にも書かれていて、神様が決められていた場所なのです。イエスさまのこの宣教の旅はずっと続き、その先には十字架の死と復活、イースターの出来事まで続くのです。
 すべては神様のご計画通りです。洗礼者ヨハネを覚えてますか?
 イエスさまに洗礼を与えた人です。このヨハネが当時の領主ヘロデが正しくないことをしたと言ったために捕まってしまいました。それまでヨハネがユダヤの荒れ野で「悔い改めよ、天の国は近づいた」と人々に宣べ伝えていました。それも旧約の時代にイザヤによって預言されていました。
 そしてヨハネが捕らえられたあと、イエスさまが同じ言葉で神様のことを伝え始められたのです。
 天の国、というのはみなさんがいつも祈る主の祈りの中にある「御国を来たらせ給え」の御国のことです。人々に神様の下に戻ってきなさい。とイエスさまは教えていて下さるのです。すべては神様のご計画です。
 私たちはすぐに寄り道してしまいます。私たちが進むべき道は神様のみもとなのです。イエスさまの伝道はその私たちに寄り道せずに神様の国を目指して進みなさいと教えてくださっているのです。(志磨恭子)

2024年4月18日 (木)

聖書の言葉475

人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。 (マタイ4・4)

 イエス様はまず洗礼を受けられました。次に、神様のご計画で「悪魔からの誘惑」という試練を受けられます。
 悪魔とは? 悪魔は黒い服を着て怖い姿をしているのではありません。目に見えるのか?それもわかりません。しかし、確実に、さりげなく、私たちのそばに近よってきます。 悪魔とは、人と神様を引きはなそうとする者です。 人が神様を信じないようにするために働くのです。
 荒野で40日間食事を断たれて空腹になられたイエス様に悪魔は近より、「神の子ならば、これらの石がパンになるよう命じたらどうだ」と言いました。
次に、聖なる都の神殿の上にイエス様を連れて行き、「神の子ならここから飛び降りたらどうだ。天使が支えてくれるだろう」と言いました。
 さらに、高い山の上にイエス様を連れて行き、国々が繁栄している様子を見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言いました。
 悪魔はこれら3つの誘惑の言葉をイエス様に投げかけたのです。さて、イエス様は悪魔に何とお答えになったのでしょうか?
私たちが悪魔からの誘惑を受けた時どうすればよいのか? イエス様はそのお手本を示してくださいました。(石室優子)

2024年4月 9日 (火)

聖書の言葉474

「すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです」(マタイ3・15)

 約2000年前、イエス様も私たち先生たちと同じように洗礼を受けました。洗礼者ヨハネによって受け、その時天から「これは私の愛する子、私の心にかなう者」という神様の声が聞こえました。その洗礼の出来事の後、イエス様はガリラヤでの伝道を始めましたから、まさしくこれから伝道の歩みを始めるぞ!というイエス様の背中を神様が押したようにも感じます。このイエス様の洗礼の出来事のために、洗礼者ヨハネはイザヤ書の預言にあるとおり、主の道を整え、イエス様の道の準備をしていました。でも、ヨハネはとても恐縮します。当然です。「私なんかがイエス様に洗礼を授けるなんて!」しかし、イエス様は「正しいことをしよう」と語られました。これは、人間がなすべき正しいことをしようということです。神様の前に罪を悔い改め、赦しを願うことの印として洗礼を受けることは、人間がなすべき最も基本的なことだ、そのように考え、「正しいことをしよう、だから私に洗礼を授けてくれ」とヨハネに伝えたのです。
 では、私たちが洗礼を受けると、日常の生活の中でどう具体的な変化があるのでしょうか? 罪が洗い流され、新しい身体に生まれ変わると、どう心理的な変化があるのでしょうか? そもそも生まれ変わるとは一体どんな変化を指しているのでしょうか? 性格が変わる? しかし大人になればなるほど、性格はなかなか変えづらい。他人に優しくなれる? ポジティブになれる? 悩み事がなくなる? いろいろ考えられますよね。人生を送る中で、時に喜び、あるいは悲しみ、誰かを憎んだり、もしくは小さな喜びに感謝するとき、必ず今までとは違う自分に変えられるときが訪れます。その時、みなさんの選択肢のひとつに「洗礼を受ける」があれば、とても嬉しく思います。(諸橋鷹広)

2024年4月 6日 (土)

聖書の言葉473

洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言った。(マタイ3・1-2)

 クラス変えや進学など、色々と変わることも多い春ですが、CSでは変わらず、しっかりと、本年度もイエス様のことを、神様の御国のことを、勉強していきます。
 本年度のテーマは『この人を見よ』です。この人とはイエス様のことです。イエス様は母マリアと父ヨセフの元に生まれました。イエス様は大人になって、30歳くらいまで家業を手伝い大工さんをしていました。そして時がきて、ついに伝道をはじめるのです。
 伝道とは何でしょうか?
 神様のことを人々にお話しすることです。神様がどのようなお方か、神様の国はどんなところか、人々に広めることです。その伝道の道のりを学ぶにあたって、今日は『洗礼者ヨハネ』について読んでいきます。
 ヨハネはイエス様が伝道をはじめられるための準備をした人と言えます。ヨハネは荒野で大きな声で、人々に大切なことを必死で語っていました。
「もうすぐ救い主が私たちの前にあらわれるぞ!だから準備をするんだ!悔い改めて、罪の赦しを得るために洗礼を受けるんだ!」
 ヨハネは、大人になられたイエスさまが伝道を始めるにあたり、人々がしっかりとイエス様に注目するように、「あの方を見るんだ!!」と強く指し示すための人なのです。(石室裕一)

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