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2021年9月 1日 (水)

聖書の言葉357

わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。(マタイ12・7)

 コンビニに行きました。お腹がグーグーなり出しました。美味しそうなパンが並んでいます。誰も見ていないから取って食べました。
 みなさんなら、こんなことはしません。ちゃんと買ってから食べます。お金がなければがまんします。世の中にはルールがあります。みなが共に生きていくためにはルールが必要です。
 安息日にイエス様の弟子たちは麦畑を通りました。神様を礼拝するために会堂に行くためです。お腹が空いたので麦の穂を摘んで食べました。その当時のルールでは少しくらい指先で摘まんで食べても泥棒ではありません。みなが共に支えあって生きていくためのルールです。
 ただし、安息日に働いてはいけないというルールがありました。安息日は神様を礼拝するためにあるのです。弟子たちのことを快く思っていなかったファリサイ派の人たちは「しめた!」と思いました。麦の穂を摘むことは安息日にしてはいけない働くことだと理屈をつけたのです。共に生きるためにあるルールが人をやっつけるために使われていいはずがありません。
 イエス様は、ファリサイ派の尊敬するダビデ王のことを持ち出しました。神殿に供えられたパンは祭司しか食べることができません。安息日に祭司は神様を礼拝します。そのために腹ごしらえは必要です。だから祭司は食べることが許されていました。ダビデも家来も神様に仕えています。祭司と同じだから供えられたパンを食べても良いのです。安息日に誰を礼拝するのでしょう。神様と人の子(イエス様)です。弟子たちが腹ごしらえして礼拝するのは、ダビデと家来と同じで許されています。
 ルールの面倒な話になってしまいました。大事なことは何のためのルールかです。互いに愛し合う(憐れむ)ためにどうすべきかです。(岸 俊彦)

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